木曜レジオ

恥の多い人生ですね(達観)

もく読日記8冊目  安楽死を遂げるまで

          グッドモーニング

あなたの死の決意は誰からも強制されたものではない。それは確かですね

先生?

      あなた、もしかして怖いの?

私が我が運命の支配者、私が我が魂の指揮官なのだ

    ダメだって言うべきじゃなかった

しかし、この国では、死は個人の自由という考えがまかり通ってしまった。

治療を諦めた段階で末期になる

    トルトゥラ

だいたい、世間は無責任すぎる!
       冷静だったらやっていない
グッドバイ

さて二冊連続での記事となる。
前回はこちら
structural-alien.hatenablog.com


今回はかなり経路の違った本である。職場の上司の勧めで読んだものだ。

内容

以下はAmazonからの引用

安楽死、それはスイス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクアメリカの一部の州、カナダで認められる医療行為である。超高齢社会を迎えた日本でも、昨今、容認論が高まりつつある。しかし、実態が伝えられることは少ない。

安らかに死ぬ――。本当に字義通りの逝き方なのか。患者たちはどのような痛みや苦しみを抱え、自ら死を選ぶのか。遺された家族はどう思うか。

79歳の認知症男性や難病を背負う12歳少女、49歳の躁鬱病男性。彼らが死に至った「過程」を辿りつつ、スイスの自殺幇助団体に登録する日本人や、「安楽死事件」で罪に問われた日本人医師を訪ねた。当初、安楽死に懐疑的だった筆者は、どのような「理想の死」を見つけ出すか。第40回講談社ノンフィクション賞を受賞した渾身ルポルタージュ

感想

ここであえて僕自身の安楽死に関する是非を述べることはしない。それは軽々しく結論すべきことでもないし、それがもたらすリスクが決して小さいことではないと言う、モラルと小市民的な自衛としてそう判断する。


しかし一つ考えさせられたのは、果たして安楽死は医療のフィールドの問題なのだろうかと言うことだ。
初めての安楽死の処置を行った若い医師が泣いてしまいその処置を躊躇ってしまった話が印象的であった。


様々な国様々な人々の間で揺れ動く安楽死の定義とそのあり方。
読む価値はある。

もく読日記 7冊目  まちあわせ

    駆除って言葉知らねぇのか!!
じゃあ危ない時にはいつでも助けてくれる?
           諦めては駄目です
 戦うよりも逃げた方がいいんです

異人類の虐待は社会問題になってるんですから!

ウアカリはね世界一進化した人類って言われてるのよ

   構うな下等なサル

          穏やかで…幸福な…

来る来ない来る


病院どこ?   九州…片道3万円


      俺待ってるよ


大事な決断ってのは
 元気な時にしなきゃ間違っちまうぜ

         今すごく幸せなんだ

これが住人達の総意なんです
            ここは僕の巣だ


読んだ書物の雑な感想や考察を綴るこのコーナー。
今回は多分初めてになる漫画の紹介。

前回はこちら
structural-alien.hatenablog.com


最近はシリーズものを追う体力がなくて、短い漫画シリーズとかが好きですね。

そんな中で見つけたのがこちら。

田中雄一 まちあわせ

あらすじ

以下Amazonの説明文から引用

虫、類人猿、巨獣…異生物と人間が織り成す、生存のドラマ! 雑誌発表時に大反響を呼んだインパクト抜群の傑作SF短編群、ついに単行本化!! 新種の昆虫の人間界への侵略『害虫駆除局』、人間と同じように進化してきた類人猿との共存『プリマーテス』、怪獣が闊歩する超未来『箱庭の巨獣』…。そして表題作『まちあわせ』は、予想不可能な壮大なイメージと感動へと導く究極のラブストーリー! 期待の新人作家、初の作品集。

大雑把な感想

うお〜SF漫画読んだぜ〜!となる。メカニカルな意味でのSF要素はほぼない。設定と物語の力での勝負。我々の生きる現代よりちょっと先か、いくつかのことが異なっている世界が舞台。
大きなテーマとしては異種族との共存/競争。そして継承の物語なのだろう。
短編ごとに異なる異種族との距離感、継承の仕方。それぞれにグロテスクで暖かく切ない。
グロテスクなクリーチャーとか人類の滅びとかそう言うのが好きな人にはぜひ読んでほしい作品。
以下はそれぞれに関する感想と考察に満たない何かを書いていこうと思う。

以下ネタバレあり。

害虫駆除局

主人公小野崎が呑気すぎる。いやまぁ最終的にはあんなことになるんですけども。
この物語における異種属、十二脚虫との関係性は「競争」だ。そして人類は圧倒的な劣勢。
当初の小野崎はそのことに無頓着でなんなら「保護しなきゃ」くらいのある意味で驕った視点で考えている。
物語の緊迫感も主人公の心情変化に合わせて徐々に逼迫したものになってゆく。それは小野崎の変化であると同時に人類が追い込まれてゆくその変化をも我々読者が追体験させられているのだ。仕事がうまくいかないというどこか牧歌的でありつつも本人的には切実な悩みがありつつも、それらを虫たちが飲み込み失われてゆく日常と余裕。
そしてこの物語の「継承」は長沼から小野崎への十二脚虫への殺意である。
しかしこの物語において長沼は最終的に殺意を放棄する。
小野崎が虫たちの脅威に接し直面化した「人類社会を脅かす虫という現実」。しかし長沼はさらに進んで「虫たちに滅ぼされつつある世界という現実」に対峙しているのだ。小野崎には未だ現実が見えていない。まだ絶望し切れていないのだ。しかしどこかで理解はしている。きっと小野崎もいつかそれを理解し受け入れることになるのだろう。

プリマーテス

異能力バトルがあるのでこの話大好きです。男の子なので。
人類と異人類。人間と少し異なった進化を遂げた「サル」たちがいる世界。猿の見た目はおそらく意図的に「分かり合え無さそう」にデザインされている。
ウアカリは、おばさんの解説によれば赤ちゃん工場で子供が生まれているのに、子供への深い愛情表現が描かれるのが細やかで大好きです。
人類が傲り高ぶり霊長の王であると思っているが実は異人類の中ではさらに恐ろしい奴らがいる、というのは害虫駆除局の小野崎の驕りの描写に通じるものを感じる。
息子と信じて育てた男児が「托卵」されていたことで投げやりになった浅川が主人公。
この物語の異種属はいうまでもなく異人類。しかしおそらく浅川の「息子」である陽介もまたある種の異種属として描かれているのだろう。
血のつながりがないと分かった途端に冷たく接する浅川は「サイテー」な人間として描かれる。浅川の気持ちに共感はしないものの理解はできるものだ。裏切られたと思っただろうし、なんだったんだという憤りもあったのだろう。
この物語における「継承」はウアカリの最後の思い出が浅川を通じその親へと渡されたことでもあり、浅川の父親への思いと、浅川と陽介の親子としての絆が再構築され、親子三代にわたる愛情が伝わって行ったことでもあったのだと思う。

まちあわせ

いやーいい話だった。
庄太郎いいやつすぎだろ。理解のある彼君最終レベルじゃん。
言うまでも無く異種属は由香里で継承されたものは由香理の母親から渡され、それを受け取った由香理と庄太郎の愛情だ。
母の愛が強すぎる。この話についてもう何を言っても野暮だから2人の愛の深さを称えておくのみにしよう。
たこ焼き屋の親父の「大事な決断ってのは元気な時にしなきゃ間違っちまうぜ」ってセリフが良いよね。

箱庭の巨獣

大怪獣バトルがあるのでこの話大好きです。男の子なので。
この物語の異種属は巨獣でこの物語は共存の物語だ。しかし同時に競争の物語でもある。継承されるのは「巣」であり「巣への想い」だ。
切ねぇな。康美は嫌々ながらも腹括って巨獣になったのに、そのわずか21年後には全部ひっくり返して狒々を受け入れるだなんて。
結局武和が「正しかった」のだ。
あまりに勝手だしやり切れない。しかも自分の息子の嫁に殺されるとは。
弱いながらも必死で巣を守るために戦った康美の体はボロボロで片目も失われている。ずっと負けていたのだろう。でも自分以外に守れる人間もいないから、康美は戦うしかなかった。そんな境遇なのに康美はうっすらと微笑むのだ。先代の麒麟が康美に笑いかけたように。
集団に振り回される若者。それはもしかしたら国家に振り回され兵士となる若者の寓話であったのかもしれない。

だんごむし

夏になると思い出す。
親の手伝いで草むしりをよくした。裏庭で趣味の家庭菜園を親はよくしていたのだが、そこは熊笹に侵略されており、定期的に毟らないと土が固まってしまうのだ。熊笹は厄介で、網のように張り巡らされた地下茎のせいで土ごと掘り返さないと除去することができない。
腰も痛くなるし、軍手から染み込んだ泥が爪の間に溜まってくる。
家の近くには淀んだため池があって、そこから蚊が無限に湧いて出てくる。
蚊取り線香を貰いはするのだが正直そんなに効果はなかった。
土を掘り返し、石をひっくり返す度にダンゴムシがうぞうぞと出てくる。
草むしりに嫌気がさした僕はダンゴムシを捕まえて蚊取り線香の上に乗せる。
突然の移動に困惑した彼らは蚊取り線香の上を歩き始める。渦巻きの中心に向かうものはそのまま支えを伝って、下の受け皿に降りてやがては土の中に帰ってゆく。
しかし、時折渦巻きの外側に向かって行くものがある。彼らは困惑しながらもどんどんと渦の外側に向かってゆき、やがてもうもうと煙をあげる発火点へと辿り着く。火種に触れた彼らの体は急速に白くなりクシャクシャと縮んでゆく。
その様を眺めることがよくあった。
彼らが歩んだグルグルとした緑の道のことを時々思い出す。

ジャングルジム

同期のベスパとジャングルジムに登った。

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夕飯の買い出しをして、すぐに帰っても良かったのだが、見知らぬ街の見知らぬ名前もわからぬ公園でジャングルジムを見つけてしまったのだ。

30手前になって登るジャングルジムってこんな怖いのか、などと言いつつ登る。

案外ヤンキーとかいねぇのな

でも、向こうで無言で雲梯やってるおばさんいるぞ

ブランコ、使用禁止になってんな

昔、なんかぐるぐる回るジャングルジムあったけど、みねぇな

俺、昔あれで大怪我したわ

そんなことを話しながら、ぼうっとしていた、いろんなことを話した。

将来のこととか、今の仕事のこととか、留年のこととか。

心に浮かんだことを、ぽつぽつと脈絡なく話し続けていた気がする。

ずっと、俺は刺激を追いかけ続けていたけど、きっと、そろそろそういう楽しさは無理になってくるんだろうな

今のうちに、もう少し、刺激のない楽しみを見つけた方が人生の後半はもっと楽しくなる

結局、色々あったけど、綱渡りみたいな人生だけど、うまくやってるんだよな

でも、多分まだあと一つ二つ山が来る

実は今まで骨折ってしたことねぇんだよな

せいぜい捻挫くらいだな、だから骨折ってどんな感じなのかわからなさすぎてこえぇ

ここまで来たら骨折せずに行きたい

留年はあくまでシステムの中での停滞だったけど、次の停滞はそうはいかないかもしれない

やっぱり、俺たちはどこかで折れてしまってる部分があって、でもそれをどこかで割り切る必要があった

どの道を選んだとしても結局どうなるからそこでどうなるかでしかないよな

でも、やっぱり選択はやりようがあるはずだ
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自分がやりたいことをやれることが本当に自分にとっていいことなのかってのはわからない

バカになれねぇとできねぇことがいっぱいあったけど、もうそういう感じじゃねぇよ

いろんな挫折や後悔を引き摺ってる

でも引き摺ってること自体を楽しめるようになってきた

引きずること自体を微笑ましく思える

それを解決する必要はなくて、それは過去のことでもう終わったことでしかなくて

少し、時々思い出して、苦笑いする

いろんな人間に会ってきた気がする

みんな、どこかでなんとかやってるらしい

挫折とか、そういうのをみんな引きずってるってのに気づけたのが救いだ

いつまでも大人になれない気がする

でもなんだかんだ変わっていってるんじゃない?みんなも、立ち振る舞いを身につけただけで

変わらない部分は自分自身というか

でも、その部分が、根本的に子供な気がする

じゃあ、それはずっとそのままかもしれないなぁ

気づけばタクシーが終了してる時間まで僕たちはジャングルジムにいた。

もく読日記6冊目 ほねがらみ【考察】

何をしても悪い方へ行ってしまうことってありませんか?

ほらね

 法則はないわけです、
           順序はあります

           我らは富に仕える

ヒントを沢山与えたのに気づけなかった馬鹿はどうなると思う?

  来た

さて、Twitterの流行には取り敢えず乗れる時は乗る、のポリシーで生きてる木曜第九です。

前回は
もく読日記 五冊目 極北 FAR NORTH - 木曜レジオ

ホラー作品の考察としては「ずうのめ人形」ぶりになる
もく読日記 四冊目 ずうのめ人形 【考察】 - 木曜レジオ


今回読んだのはこちら、
ほねがらみ/芦花公園

ほねがらみ (幻冬舎単行本)

ほねがらみ (幻冬舎単行本)


この記事は考察っぽい感じを目指してみようとはするけど、多分最終的には僕がいいたいことを言い散らかして終わる気がする。

あらすじ。

以下Amazonの内容説明からの引用

「今回ここに書き起こしたものには全て奇妙な符号が見られる。読者の皆さんとこの感覚を共有したい」から始まる、ドキュメント・ホラー小説。

大学病院勤めの「私」の趣味は、怪談の収集だ。
手元に集まって来る、知人のメール、民俗学者の手記、インタビューのテープ起こし。その数々の記録に登場する、呪われた村、手足のない体、白蛇の伝説。そして――。
一見、バラバラのように思われたそれらが、徐々に一つの線でつながっていき、気づけば恐怖の沼に引きずり込まれている!

雑感

まずはネタバレなしの雑感。
正直ホラーとしてはそこまで怖くはなかった。ただ、これは読んだ後に誰かと語り合いたくなる作品であるのは間違いなかった。それこそ、まさにこの物語の構造そのものが語り語られで紡がれるものであるから、必然ではあるのかもしれない。
ホラーがある程度好きで民俗学が好きな人は読んでも良いと思う。
ただ、芦花公園が語るように民俗学的な要素は「悪魔で」フレーバーであると思われる。
以下はネタバレ全開である。

はじめに

本編でも語られていたではないか、怪談は完全に「虚」として聞いては楽しめないと。
だから僕はこの物語に出てくる「なかし」を実在するものとして考察しようと思う。

「ほねがらみ」芦花公園さんインタビュー 投稿サイトから生まれたホラー小説、一部は実話も…!?|好書好日

だから作者である芦花公園の上の記事にある「ネタバレ」という名の考察にあえて疑問符を投げかけてみることにした。
その問いとは
「『なかし』というシステムは暴走したのか?」
と言うことだ

フラグメント

ひとまず、この物語に散りばめられた断片的な僕個人の疑問や推察を羅列しよう。もしも僕の疑問に対する何らかの答えを持つ人がいるのであれば是非ご教示願いたい。

まとまりは無いがそれぞれは緩やかに結びつく。散りばめられたモチーフ。
「豊穣 赤ちゃん 神様 天井 医者 まびき だるま」p39
とても親切な物語だと思った。この物語では伏線は伏せられていないのだ。これでもかと開示されている。寧ろ、伏線こそがこの物語の本体なのだ。

「いぬる」 p24
ここでの発話者はおそらく「なかし」を封印していた「神様」であろう。神様はいないことが後半で明かされるが、こいつは「誰」で「何」で「どこに」帰るのだ?

「ある達磨の顛末」p57
このメールの内容は明かされない。そしてこの本の第6章が同名の「知 ある達磨の顛末」であるのは偶然ではないだろう。
この名付けのせいでこのものがたりの構造はマトリョーシカのようになっている。整形外科医である「私」にとって「読む対象」であったはずの物語にこの時点ですでに取り込まれているのだ。

「◾️◾️◾️◾️◾️」p78 p97p100 p251
この伏せ字の中に何が入るのか僕にはわからない。ヒントらしきものは散りばめられているのだが。マモンを含むアラム語の文が入るのか?

「どうやって入ったんだよ」p94
「ヒントを沢山与えたのに気づけなかった馬鹿はどうなると思う?」p96
「もう、入られとる」p130
「せんせい」p261
この物語には何度か「あるはずの境界を跨ぐ」描写が出てくる。こういった怪談でつきものなのは「バケモノ」を何とかして家の中に入れないようにする人間と、上手いこと言って侵入しようとするバケモノとの攻防である。それは「八尺様」でもそうだし、「ぼぎわんが来る」でもそうだ。もっと古典的なことを言えばヴァンパイアだってそうだ。しかしこの物語の「それ」はやすやすと境界を侵犯してくる。
そして耳元でのささやきだ。「いぬる」p24「また来ます」p230もそうだし、「ママ」p125も。「お母さん、ボクです。座ってください」p133 ここも囁きの描写であるが、直前までMの一人称は「私」であるしこの「ボク」は誰なのだろう。
というか「なかし」に関してはハナから背後に「居る」気がする。

「私はおらんと思うんよ」p128
「神様はもうおりませぬ」p285
神の不在である。「いぬる」p24もそう。「神、人を喰う」p159 という著作でも神の不在が語られているようだ。

「これで遊ぶといい」p194
これは知恵の実であろう。イブを唆し楽園を失わせた悪魔が食べさせた果実。

「ニメイデス」p213
なぜ店員がこんな反応をするのかよくわからない。水谷は私以外の人間にも見えている。見えているだけではないのか?よっぽどおぞましい姿なのか?「血に なってない 水をください」p214 にしても「はぁ?」とはなっても悲鳴をあげるほどのことだろうか?「店を震わせるような大爆笑」p218 に至ってはもはや意味不明だ。私が狂気に陥っているで説明はつくが、「異常な水谷」と会話しようとするのが私の異常さであるのならば、「店を異常に知覚する」私はうまく噛み合わない。ちぐはぐである。狂うにしても狂いかたがおかしい。

マットレスの中央が窪んでいる」p262
え、誰?誰が寝てるのそこで?水谷ではないし、「なかし」なのだろうか。
「なかし」は既に「私」の部屋に入り込んでいて同棲していたのだろうか。妹のストーカーである「まーくん」は元女の子の男性であり、ある意味中性的であり越境者でもある。「みぃちゃん」に対する「まーくん」であるのは間違いない気はする。

まーくんとみーちゃん。多分全く関係ない。偶然の「不」一致だ。息抜きに軽くボケてみただけだ。
閑話休題
「彼」が「なかし」であるわけではないが無意味な設定ではないだろうから「なかし」を理解するためのヒントではあるのだろう。まーくんを構成する要素をあげてみよう。「ストーカー」「独占欲」などなど。しかし彼は猫おばちゃんのフィーリングのアドバイスで「消えてしまう」のだ。であれば、なかしに対する対策も、猫おばちゃんが「正しい」のではないか。知らないこと、それ自体がなかし対策になるのだ。だがしかしここで少しおかしなことに気づく。「なかし」は知られることでチカラを増す怪異ではあるのだろう。だがしかし、なかしは「ナカーシュ」でもあり知恵を授けるものでもあるのだ。こう考えて行くと「なかし」が与えんとする知恵の実は「なかし」そのものであり、ある種のフラクタルな構造が明らかになるのだ。


「彼らは、自らの主神以外を認めないということだ。それ以外の神は、悪魔というわけだ」p245
なかしもやはり「神」なのだ。悪魔であるが故に。

なかしと憑き物筋

「我らは富に仕える」p251
座敷わらしが資本主義の影響で生まれた、という説を以前どこかで読んだ。京極堂シリーズであったかもしれずはっきりは覚えていないが。
他の文献や資料がないかと探したところ、以下の立教大学文化人類学のページを見つけた。

【第16回】象徴交換、沈黙交易、座敷童子

そこでは、「富を獲得した家系が憑き物筋として語られ、そうした汚名を与えられた家が勢いを失って没落し、やがて共同体は経済的に標準化されてゆく」と説明されている。さて、此処で憑き物筋は「標準化」のシステムであると語られる。本来は橘家もそうやって標準化される運命にあったのかもしれぬが、2度の「神殺し」に成功してしまったことでそのシステムは大きくかきかえられ、キリスト教的世界を内包した憑き物筋家系という歪んだシステムが成立してしまったとも考えられないだろうか

神の不在と権力構造

この物語において「神様」は存在しない。だが悪魔だけは存在している。そんなことがあるだろうか。キリスト教的世界観に立脚するのであれば、悪魔もまた神がいてこそ成立するものなのではないか。悪魔たる「なかし」はシステムであると作者の芦花公園は言う。であれば
システムそのものに「悪魔」性があるのでなければ、正確な表現としては、システムの一部が悪魔として機能しているわけで、神もまたシステムの一部、もしくはシステムの側面の1つではないか。「なかし」の実在を信じることは神の存在を信じることに他ならない。だからこそ、「なかし」は便宜上「祓う」と表現されるだけで実際には「お願い」になるのではないだろうか。そう考えて行くと、上記のフラグメントでの疑問である、「いぬる」の発話者が誰なのかが明らかになる。それは「なかし」であり「神」であったのだ。「なかし」も「神」もしらぬ少年には匿名のシステムとしての声が聞こえたのだ。「神」を勝手に失ったのは人間である。それはもしかしたらキリシタン弾圧によってなされた神の座の空白であったのかもしれない。最上位存在としての神が失われた以上、システムの統括は「なかし」がになうことになった。「なかし」自身は昔神様であったのかもしれないが、景教により悪魔へと零落させられてしまった。この物語において神様は2度人の手で殺されているのである。これは甚だ人間が愚かしい。
その空座に元神である「なかし」は悪魔として神として堂々と居座るのである。

「私」の夢の中で「なかし」は先生の姿で出てくる。次の生贄を挙手で決めようと言うのだ
なんと民主主義的であろうか。「ほねがらみ」と「ハンナ・アーレント」を結びつけた考察はすでにある。
『ほねがらみ』と偶像|上村湊|note

以上の考察の二番煎じになるかもしれないが僕なりの考察を語ろう。ただし、僕の語る哲学的考察はにわか知識の付け焼き刃であり大いに批判的に呼んでほしい。

僕が注目したのは、「なかし」が「生徒たち」の自主性を尊ぶことである。
話は変わるが、ミッシェル・フーコーという哲学者をご存知だろうか。
彼は権力に関しこう語った

実際、権力関係を定義するのは何かと言えば、この関係が、他者に直接、無媒介に働きかけるのではなくて、他者に働きかけるような行為の様態だということである。すなわち権力の関係とは、行為に対する行為であり、なされるかもしれぬ、あるいは現実になされる、みらいもしきは現在の行為に対する働きかけなのである。[それに対し]暴力の関係は、身体や物に働きかける。それは強制し、屈服させ
打ちのめし、破壊し、あらゆる可能性を閉ざす。それゆえ、暴力の関係の元には、受動性の極みしか残されていない。

中動態の世界p146

此処では暴力と権力が比較されており、暴力には受動性しか残されていないと語られる、それに対して権力には能動性が残されているのである。銃で一度人を撃てばそのものは死に、何もできなくなる。だがしかし、銃弾の暴力が「行使可能性」である限りはそれは権力による能動的な行為の誘発でしかないのである。人々の四肢を暴力で捥いでしまっては命令を実行させることはできない。権力とは常に「行使される側の自発性」によって維持されているのである。そして、その自発性の維持のために暴力は限定的にふるわれる。暴力の効果を思い知らせるために。

「なかし」は権力構造のシステムであり「生贄」は「限定的な暴力の行使」の産物である。

菅野稔人はフーコーの暴力をこう解説する。

暴力は、相手の身体に備わっている力能を物理的に上回る力によって、その身体を特定の状態に置くように作用する

「なかし」が生贄たちの四肢を毟ることはまさに暴力である。
ナチスについて語ったハンナ・アレントはこう語った。

「権力はただ単に行為するだけでなく、一致して行為する人間の能力に対応する。権力は決して個人の性質ではない。それは集団に属するものであり集団が集団として維持されている限りにおいてのみ存在し続ける」

中動態の世界p153

「なかし」は橘の人間をふくめ周囲の人間たちによって畏れられ維持されていた。皆「進んで」鈴木親子を犠牲にしたのである。

「なかし」が権力構造であるとすれば、それが犠牲の対価に何も人間にもたらさなかったとしてそれは暴走ではなく報酬系としての「神」を失ったシステムの権力面がむき出しになっただけであると僕は考える。
「なかし」はむき出しの権力構造である。

不滅のシステム

「法則はないわけです、順序はあります」p232
水谷の台詞である。これは場面から考えて誰がどうやって死んでいくかの話であろう。僕はこれに似た言い回しを既に聞いたことがあった。
それは「マルクスを再読する」という、マルクス哲学を近年再注目されている中世のスピノザという哲学者の考え方で再解釈してみようとした本の中にあった。

スピノザ歴史観は、歴史を基本的に発展しないものとしてとらえる歴史観です。社会は、ほかの異質なシステムと遭遇したときに変化するのみであって、そこには発展もなければ、当然のことながら目的論的な直線的方向性もありません。発展ではなくて、変化なのです。変化というのはfractalなもので、外在的な要因に対応して変わるものですから、そのときそのときで方向が違いますし、したがって直線的な発展でも目的論的な発展でもないわけです。  そこから見れば、古代奴隷制から中世封建制へ、中世封建制から近代資本制へ、というような「発展」は、後読みすればそう読めるというだけであって、そういう「法則」があるわけではない、ということになります。実際は、外在的な偶然性によって変化してきたにすぎない、偶発的な要因によってふらふらふらふらしながら歴史は流れていくのだ、というふうに見るわけです。

マルクスを再読する 三章スピノザ革命

スピノザの体系の特徴は、社会のような構成体を一つの機械、一つのシステムのようなものとしてとらえるところにあります。そして、存在するものを全面的に肯定するのです。存在する実体の中に矛盾を見ないで、それが存在するかぎり丸ごと肯定されるべきものとして見るのです。存在するものは、すべて必要なものなのです。そして、存在するものは、すべてが、それぞれシステムとして完全な機能を果たしているということになります。小さな石ころも、小さな虫けらも、なんらかの形でこの世界を構成する要素として機能しているし、それぞれの内部においても均衡を保っており、一つのシステムとして完全である、ということです。だから、石が自然に爆発することもないし、虫が何もしないのに死んでしまうこともない。そのままなら永遠に存在する。爆発や死が起こるとすれば、それは外部原因によるものなのです。  ですから、存在するものすべての中に必ず均衡があり、それがいつも保たれているととらえられるわけです。人間を考えますと、内臓ですとか血管網ですとかリンパ網ですとか、そういうものがバランスよく配置されていて、相互に矛盾することがないのです。このようなものをスピノザは「自動機械(*6)」と形容しています。これをいまの言葉で言えば「システム」ということになります。存在するすべてのものはシステムとして完全で、そのままなら永遠に正しく機能していく、というのがスピノザの考え方なのです。

マルクスを再読する 三章スピノザ革命

つまり、システムとは外部が存在しなければ永続的に機能し続けるのである。「なかし」に外部は存在するのか
僕は存在しないと考える。なぜならば「なかし」のシステムに参与する条件は1つ。「知ること」であるからだ。「なかし」を知らぬ人間にとって「なかし」は存在しないも同義であり、「なかし」にとってもその人間は存在しないからである。であるから、「なかし」にとって外部世界は存在せずまさしく閉じられた閉鎖系の世界に成立する永続的なシステム世界であるのである。

結語

まとまりない文章をここまで読んでくれた人間がどれほどいるかわからないが、ひとまず感謝を。

結論としていうのであれば、「なかし」はシステムでありそれは完成され暴走など全くしていないということである。

「なかし」のシステムとしての考察に少しでも貢献できれば幸いである。

NHKの集金vsテレビを知らない人

はぁ。
世の中に仕事は何種類とあるけれども、世間的に知名度の高い嫌われ仕事と言えばNHKの集金をあげる人間は多いんじゃなかろうか。
聖書でも徴税役人は死ぬほど嫌われてたし、お金を回収する人種というのはなんだかんだ嫌われやすいのは今も昔も変わらないのかもしれない。

「すいませーん、NHKの受信料の集金に来たんですけども」
さぁ、どう来るか。
よくあるパターンは勢いで押し切ると案外素直に払ってくれる人、テレビがない!一点張りでなんとか払わないようにしようとする人、居留守の人、そもそも留守の人などなど。
「はーい」
野太い声と共に玄関を開けたのは、白髭を床まで伸ばして作務衣を着た仙人のような男だった。わずかに開かれた扉の隙間から盗み見た室内にはうず高くカビ臭い本が積まれていた。学者なのだろうか。
「で?なんだって?」
思わず男の風貌に気圧された俺に男は要件を聞いてきた。
「あ、はい、すみません、NHKの受信料の回収に来たんですけども」
「えぬえっちけぇ?」
男はまるで聞きなれない単語でも効いたとばかりに訝しげな顔で復唱した。いや、知らんわけないだろ。惚けてんのかコイツ。と思ったが、この男の風貌からして世間知らずが過ぎて知らない可能性はあるかもしれないと思った。
「えーと、ご自宅にテレビやワンセグと言った受信できる機器はございますか?」
いつも通りの口調でそう尋ねると
「あ!テレビ!テレビね!テレビな!知っとる知っとる」
いや、知ってるかは聞いてはないのだが。
「えっと、持ってはいない、ということでしょうか?」
そういうと男はハッ!とした顔になった。
「いやいや!持ってないわけないだろうが!みんな持っとるもんなんだろ!?」
「テレビをもしかしてご存知ない?」
思わず俺がそう尋ねると男は絶叫した。
「知っとると言っとろうが!テレビジョンだろ!!あの、ほら、電波の!電波のやつ!箱みたいなやつな!」
ブラウン管の認識で止まってるのか。テレビジョンとかいう人間初めて見たぞ。
男のあまりの必死さにムクムクと邪悪な気持ちが芽生えてしまった。
「えっと、こちらを見ていただきたいんですが」
そう言って俺がスマホを取り出すと再び男は怪訝な顔をした。というかずっと怪訝な顔か必死な顔しかしてない気がする。
「なんだそのかまぼこ板みたいなのは」
俺が画面を撫でると暗かった画面が鮮やかなホーム画面に変わるのを見て男は息を呑んだ。
スマホと言います」
「す、すまふぉ、、」
気せずして「正しい」略し方で男は発音した。
「これは当社の最先端機器でして世間でもまだまだ珍しいモノになります」
「ほ、ほう、そら知らんわいな」
男が若干の安堵のこもった顔でつぶやいた。
ニヤケそうになるのを必死に堪えつつ俺は素早くYouTubeを起動し、適当なテレビの広告動画を再生した。
「ファ!?絵、絵が動いとる!?!?」
男は目を見開き驚愕の表情を浮かべた。
マジかこいつ。
「すまふぉ、というものはすごいもんなんだなぁ、いやぁ知らなんだ知らなんだ」

「なんにも知らなんだ」

そう言った男の手に握られたナイフは俺の腹に突き立てられていた。
「え?」
脱力した俺の体を室内に引き込む男の声がぼんやりと聞こえてくる。
「お!こいつ、金をたんまり持っとるな、なんだかよくわからんがこの金っちゅーもんがないと色々とうまくいかなんだからなぁ」
乱暴にごとごととカビ臭い部屋に体が投げ出される。痛いし熱いし寒い。
「こ、こんなことして、許されない、ぞ、絶対に、バレる」
なんとか絞り出した俺の言葉に男は満面の笑顔で持って返答したのだ。
「なーんにも知らなんだ」

好きこそモノの 5品目   ナイキのサンダル

自分が持ってて好きなものを雑に紹介する記事

 

structural-alien.hatenablog.com

 

今回紹介するのはこちら(ブレブレじゃん)

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あの有名なナイキのべナッシというシャワーサンダル。

昨年Amazonで購入したが現在この柄は見つからなかった。やったぜ。

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正面から見るとこんな感じ(こういう個人ブログで筆者の腕毛とか映り込むとガン萎えるよね、自分のでも萎える)。

ド派手柄っぽいけどストライプでなんとか抑え込んでる絶妙な感じ。(休日職場に履いて行ったら普通に同期にドン引きされたが)

これ、Amazonでレビュー見たとき、やたらにストラップがキツいとか伸縮性に欠けるとかゴチゴチャグダグダと書いてあって、そんなん知るかよと思って買ったんですが、全部本当でした。

Amazonのレビューってホントのことが書いてあるんですね。

まぁ実際ストラップがキツいし伸縮性に欠けるので、足幅が広めの僕はむりくりにがっつり足をねじ込んでもだんだんストラップから足が押し出されてしまいます。例えば全力疾走とかしたら確実にサンダルがすっぽ抜けて足がズルムケになります。

ですが、さすがナイキというべきなのか、ソールが異常に良い。

見ただけでわかるんですけど安物のシャワーサンダルと比べると確実に肉厚なんですよ。

いや、別にそんなサンダル履きまくってるわけじゃないけど、クロックスのサンダルよりは圧倒的に足への耐衝撃性能は良い。もちろんそこら辺のやっすいサンダルと比べると段違い。

走ったりは無理だけど、ちょっとした散歩とか、買い出しとかはこれで十分。

ストラップがキツすぎて段々脱げてくるのも、普段意識外にある足に意識が向いて楽しかったりもするし。

そんな言い訳もしつつ、お気に入りだから結局履いてるようなそんなサンダル。

おすすめだよ。