木曜レジオ

恥の多い人生ですね(達観)

もく読日記6冊目 ほねがらみ【考察】

何をしても悪い方へ行ってしまうことってありませんか?

ほらね

 法則はないわけです、
           順序はあります

           我らは富に仕える

ヒントを沢山与えたのに気づけなかった馬鹿はどうなると思う?

  来た

さて、Twitterの流行には取り敢えず乗れる時は乗る、のポリシーで生きてる木曜第九です。

前回は
もく読日記 五冊目 極北 FAR NORTH - 木曜レジオ

ホラー作品の考察としては「ずうのめ人形」ぶりになる
もく読日記 四冊目 ずうのめ人形 【考察】 - 木曜レジオ


今回読んだのはこちら、
ほねがらみ/芦花公園

ほねがらみ (幻冬舎単行本)

ほねがらみ (幻冬舎単行本)


この記事は考察っぽい感じを目指してみようとはするけど、多分最終的には僕がいいたいことを言い散らかして終わる気がする。

あらすじ。

以下Amazonの内容説明からの引用

「今回ここに書き起こしたものには全て奇妙な符号が見られる。読者の皆さんとこの感覚を共有したい」から始まる、ドキュメント・ホラー小説。

大学病院勤めの「私」の趣味は、怪談の収集だ。
手元に集まって来る、知人のメール、民俗学者の手記、インタビューのテープ起こし。その数々の記録に登場する、呪われた村、手足のない体、白蛇の伝説。そして――。
一見、バラバラのように思われたそれらが、徐々に一つの線でつながっていき、気づけば恐怖の沼に引きずり込まれている!

雑感

まずはネタバレなしの雑感。
正直ホラーとしてはそこまで怖くはなかった。ただ、これは読んだ後に誰かと語り合いたくなる作品であるのは間違いなかった。それこそ、まさにこの物語の構造そのものが語り語られで紡がれるものであるから、必然ではあるのかもしれない。
ホラーがある程度好きで民俗学が好きな人は読んでも良いと思う。
ただ、芦花公園が語るように民俗学的な要素は「悪魔で」フレーバーであると思われる。
以下はネタバレ全開である。

はじめに

本編でも語られていたではないか、怪談は完全に「虚」として聞いては楽しめないと。
だから僕はこの物語に出てくる「なかし」を実在するものとして考察しようと思う。

「ほねがらみ」芦花公園さんインタビュー 投稿サイトから生まれたホラー小説、一部は実話も…!?|好書好日

だから作者である芦花公園の上の記事にある「ネタバレ」という名の考察にあえて疑問符を投げかけてみることにした。
その問いとは
「『なかし』というシステムは暴走したのか?」
と言うことだ

フラグメント

ひとまず、この物語に散りばめられた断片的な僕個人の疑問や推察を羅列しよう。もしも僕の疑問に対する何らかの答えを持つ人がいるのであれば是非ご教示願いたい。

まとまりは無いがそれぞれは緩やかに結びつく。散りばめられたモチーフ。
「豊穣 赤ちゃん 神様 天井 医者 まびき だるま」p39
とても親切な物語だと思った。この物語では伏線は伏せられていないのだ。これでもかと開示されている。寧ろ、伏線こそがこの物語の本体なのだ。

「いぬる」 p24
ここでの発話者はおそらく「なかし」を封印していた「神様」であろう。神様はいないことが後半で明かされるが、こいつは「誰」で「何」で「どこに」帰るのだ?

「ある達磨の顛末」p57
このメールの内容は明かされない。そしてこの本の第6章が同名の「知 ある達磨の顛末」であるのは偶然ではないだろう。
この名付けのせいでこのものがたりの構造はマトリョーシカのようになっている。整形外科医である「私」にとって「読む対象」であったはずの物語にこの時点ですでに取り込まれているのだ。

「◾️◾️◾️◾️◾️」p78 p97p100 p251
この伏せ字の中に何が入るのか僕にはわからない。ヒントらしきものは散りばめられているのだが。マモンを含むアラム語の文が入るのか?

「どうやって入ったんだよ」p94
「ヒントを沢山与えたのに気づけなかった馬鹿はどうなると思う?」p96
「もう、入られとる」p130
「せんせい」p261
この物語には何度か「あるはずの境界を跨ぐ」描写が出てくる。こういった怪談でつきものなのは「バケモノ」を何とかして家の中に入れないようにする人間と、上手いこと言って侵入しようとするバケモノとの攻防である。それは「八尺様」でもそうだし、「ぼぎわんが来る」でもそうだ。もっと古典的なことを言えばヴァンパイアだってそうだ。しかしこの物語の「それ」はやすやすと境界を侵犯してくる。
そして耳元でのささやきだ。「いぬる」p24「また来ます」p230もそうだし、「ママ」p125も。「お母さん、ボクです。座ってください」p133 ここも囁きの描写であるが、直前までMの一人称は「私」であるしこの「ボク」は誰なのだろう。
というか「なかし」に関してはハナから背後に「居る」気がする。

「私はおらんと思うんよ」p128
「神様はもうおりませぬ」p285
神の不在である。「いぬる」p24もそう。「神、人を喰う」p159 という著作でも神の不在が語られているようだ。

「これで遊ぶといい」p194
これは知恵の実であろう。イブを唆し楽園を失わせた悪魔が食べさせた果実。

「ニメイデス」p213
なぜ店員がこんな反応をするのかよくわからない。水谷は私以外の人間にも見えている。見えているだけではないのか?よっぽどおぞましい姿なのか?「血に なってない 水をください」p214 にしても「はぁ?」とはなっても悲鳴をあげるほどのことだろうか?「店を震わせるような大爆笑」p218 に至ってはもはや意味不明だ。私が狂気に陥っているで説明はつくが、「異常な水谷」と会話しようとするのが私の異常さであるのならば、「店を異常に知覚する」私はうまく噛み合わない。ちぐはぐである。狂うにしても狂いかたがおかしい。

マットレスの中央が窪んでいる」p262
え、誰?誰が寝てるのそこで?水谷ではないし、「なかし」なのだろうか。
「なかし」は既に「私」の部屋に入り込んでいて同棲していたのだろうか。妹のストーカーである「まーくん」は元女の子の男性であり、ある意味中性的であり越境者でもある。「みぃちゃん」に対する「まーくん」であるのは間違いない気はする。

まーくんとみーちゃん。多分全く関係ない。偶然の「不」一致だ。息抜きに軽くボケてみただけだ。
閑話休題
「彼」が「なかし」であるわけではないが無意味な設定ではないだろうから「なかし」を理解するためのヒントではあるのだろう。まーくんを構成する要素をあげてみよう。「ストーカー」「独占欲」などなど。しかし彼は猫おばちゃんのフィーリングのアドバイスで「消えてしまう」のだ。であれば、なかしに対する対策も、猫おばちゃんが「正しい」のではないか。知らないこと、それ自体がなかし対策になるのだ。だがしかしここで少しおかしなことに気づく。「なかし」は知られることでチカラを増す怪異ではあるのだろう。だがしかし、なかしは「ナカーシュ」でもあり知恵を授けるものでもあるのだ。こう考えて行くと「なかし」が与えんとする知恵の実は「なかし」そのものであり、ある種のフラクタルな構造が明らかになるのだ。


「彼らは、自らの主神以外を認めないということだ。それ以外の神は、悪魔というわけだ」p245
なかしもやはり「神」なのだ。悪魔であるが故に。

なかしと憑き物筋

「我らは富に仕える」p251
座敷わらしが資本主義の影響で生まれた、という説を以前どこかで読んだ。京極堂シリーズであったかもしれずはっきりは覚えていないが。
他の文献や資料がないかと探したところ、以下の立教大学文化人類学のページを見つけた。

【第16回】象徴交換、沈黙交易、座敷童子

そこでは、「富を獲得した家系が憑き物筋として語られ、そうした汚名を与えられた家が勢いを失って没落し、やがて共同体は経済的に標準化されてゆく」と説明されている。さて、此処で憑き物筋は「標準化」のシステムであると語られる。本来は橘家もそうやって標準化される運命にあったのかもしれぬが、2度の「神殺し」に成功してしまったことでそのシステムは大きくかきかえられ、キリスト教的世界を内包した憑き物筋家系という歪んだシステムが成立してしまったとも考えられないだろうか

神の不在と権力構造

この物語において「神様」は存在しない。だが悪魔だけは存在している。そんなことがあるだろうか。キリスト教的世界観に立脚するのであれば、悪魔もまた神がいてこそ成立するものなのではないか。悪魔たる「なかし」はシステムであると作者の芦花公園は言う。であれば
システムそのものに「悪魔」性があるのでなければ、正確な表現としては、システムの一部が悪魔として機能しているわけで、神もまたシステムの一部、もしくはシステムの側面の1つではないか。「なかし」の実在を信じることは神の存在を信じることに他ならない。だからこそ、「なかし」は便宜上「祓う」と表現されるだけで実際には「お願い」になるのではないだろうか。そう考えて行くと、上記のフラグメントでの疑問である、「いぬる」の発話者が誰なのかが明らかになる。それは「なかし」であり「神」であったのだ。「なかし」も「神」もしらぬ少年には匿名のシステムとしての声が聞こえたのだ。「神」を勝手に失ったのは人間である。それはもしかしたらキリシタン弾圧によってなされた神の座の空白であったのかもしれない。最上位存在としての神が失われた以上、システムの統括は「なかし」がになうことになった。「なかし」自身は昔神様であったのかもしれないが、景教により悪魔へと零落させられてしまった。この物語において神様は2度人の手で殺されているのである。これは甚だ人間が愚かしい。
その空座に元神である「なかし」は悪魔として神として堂々と居座るのである。

「私」の夢の中で「なかし」は先生の姿で出てくる。次の生贄を挙手で決めようと言うのだ
なんと民主主義的であろうか。「ほねがらみ」と「ハンナ・アーレント」を結びつけた考察はすでにある。
『ほねがらみ』と偶像|上村湊|note

以上の考察の二番煎じになるかもしれないが僕なりの考察を語ろう。ただし、僕の語る哲学的考察はにわか知識の付け焼き刃であり大いに批判的に呼んでほしい。

僕が注目したのは、「なかし」が「生徒たち」の自主性を尊ぶことである。
話は変わるが、ミッシェル・フーコーという哲学者をご存知だろうか。
彼は権力に関しこう語った

実際、権力関係を定義するのは何かと言えば、この関係が、他者に直接、無媒介に働きかけるのではなくて、他者に働きかけるような行為の様態だということである。すなわち権力の関係とは、行為に対する行為であり、なされるかもしれぬ、あるいは現実になされる、みらいもしきは現在の行為に対する働きかけなのである。[それに対し]暴力の関係は、身体や物に働きかける。それは強制し、屈服させ
打ちのめし、破壊し、あらゆる可能性を閉ざす。それゆえ、暴力の関係の元には、受動性の極みしか残されていない。

中動態の世界p146

此処では暴力と権力が比較されており、暴力には受動性しか残されていないと語られる、それに対して権力には能動性が残されているのである。銃で一度人を撃てばそのものは死に、何もできなくなる。だがしかし、銃弾の暴力が「行使可能性」である限りはそれは権力による能動的な行為の誘発でしかないのである。人々の四肢を暴力で捥いでしまっては命令を実行させることはできない。権力とは常に「行使される側の自発性」によって維持されているのである。そして、その自発性の維持のために暴力は限定的にふるわれる。暴力の効果を思い知らせるために。

「なかし」は権力構造のシステムであり「生贄」は「限定的な暴力の行使」の産物である。

菅野稔人はフーコーの暴力をこう解説する。

暴力は、相手の身体に備わっている力能を物理的に上回る力によって、その身体を特定の状態に置くように作用する

「なかし」が生贄たちの四肢を毟ることはまさに暴力である。
ナチスについて語ったハンナ・アレントはこう語った。

「権力はただ単に行為するだけでなく、一致して行為する人間の能力に対応する。権力は決して個人の性質ではない。それは集団に属するものであり集団が集団として維持されている限りにおいてのみ存在し続ける」

中動態の世界p153

「なかし」は橘の人間をふくめ周囲の人間たちによって畏れられ維持されていた。皆「進んで」鈴木親子を犠牲にしたのである。

「なかし」が権力構造であるとすれば、それが犠牲の対価に何も人間にもたらさなかったとしてそれは暴走ではなく報酬系としての「神」を失ったシステムの権力面がむき出しになっただけであると僕は考える。
「なかし」はむき出しの権力構造である。

不滅のシステム

「法則はないわけです、順序はあります」p232
水谷の台詞である。これは場面から考えて誰がどうやって死んでいくかの話であろう。僕はこれに似た言い回しを既に聞いたことがあった。
それは「マルクスを再読する」という、マルクス哲学を近年再注目されている中世のスピノザという哲学者の考え方で再解釈してみようとした本の中にあった。

スピノザ歴史観は、歴史を基本的に発展しないものとしてとらえる歴史観です。社会は、ほかの異質なシステムと遭遇したときに変化するのみであって、そこには発展もなければ、当然のことながら目的論的な直線的方向性もありません。発展ではなくて、変化なのです。変化というのはfractalなもので、外在的な要因に対応して変わるものですから、そのときそのときで方向が違いますし、したがって直線的な発展でも目的論的な発展でもないわけです。  そこから見れば、古代奴隷制から中世封建制へ、中世封建制から近代資本制へ、というような「発展」は、後読みすればそう読めるというだけであって、そういう「法則」があるわけではない、ということになります。実際は、外在的な偶然性によって変化してきたにすぎない、偶発的な要因によってふらふらふらふらしながら歴史は流れていくのだ、というふうに見るわけです。

マルクスを再読する 三章スピノザ革命

スピノザの体系の特徴は、社会のような構成体を一つの機械、一つのシステムのようなものとしてとらえるところにあります。そして、存在するものを全面的に肯定するのです。存在する実体の中に矛盾を見ないで、それが存在するかぎり丸ごと肯定されるべきものとして見るのです。存在するものは、すべて必要なものなのです。そして、存在するものは、すべてが、それぞれシステムとして完全な機能を果たしているということになります。小さな石ころも、小さな虫けらも、なんらかの形でこの世界を構成する要素として機能しているし、それぞれの内部においても均衡を保っており、一つのシステムとして完全である、ということです。だから、石が自然に爆発することもないし、虫が何もしないのに死んでしまうこともない。そのままなら永遠に存在する。爆発や死が起こるとすれば、それは外部原因によるものなのです。  ですから、存在するものすべての中に必ず均衡があり、それがいつも保たれているととらえられるわけです。人間を考えますと、内臓ですとか血管網ですとかリンパ網ですとか、そういうものがバランスよく配置されていて、相互に矛盾することがないのです。このようなものをスピノザは「自動機械(*6)」と形容しています。これをいまの言葉で言えば「システム」ということになります。存在するすべてのものはシステムとして完全で、そのままなら永遠に正しく機能していく、というのがスピノザの考え方なのです。

マルクスを再読する 三章スピノザ革命

つまり、システムとは外部が存在しなければ永続的に機能し続けるのである。「なかし」に外部は存在するのか
僕は存在しないと考える。なぜならば「なかし」のシステムに参与する条件は1つ。「知ること」であるからだ。「なかし」を知らぬ人間にとって「なかし」は存在しないも同義であり、「なかし」にとってもその人間は存在しないからである。であるから、「なかし」にとって外部世界は存在せずまさしく閉じられた閉鎖系の世界に成立する永続的なシステム世界であるのである。

結語

まとまりない文章をここまで読んでくれた人間がどれほどいるかわからないが、ひとまず感謝を。

結論としていうのであれば、「なかし」はシステムでありそれは完成され暴走など全くしていないということである。

「なかし」のシステムとしての考察に少しでも貢献できれば幸いである。