木曜レジオ

恥の多い人生ですね(達観)

もく読日記12冊目 短くて恐ろしいフィルの時代

   国が縮んだんだよ

                さてと、では税を徴税するとしようか

もう行かないよ  そういうことはもうぜんぶ終了だ

                            それぞれに1スモロカだ

私は悪くない 私はとてもいい人間だ。私のしていることは、みんなを幸せにするのだ。

もう2度とあのような日々は戻ってこないのであろうな

        ついさっきのことでございます、閣下

    お前たちは一人一人が幸せにならなければならぬ

 

さて久しぶりの読書は「短くて恐ろしいフィルの時代」

 

 

 

職場近くにセンスのいい本屋さんを見つけたのだ。そこを彷徨っていると、岸本佐知子コーナーがあったのだ。前回の「居心地の悪い部屋」以来、岸本佐知子の名前がついた本が気になるようになってしまった。そこで薄くて読みやすそうでタイトルがいい感じの本書を手に取ったわけだ。

structural-alien.hatenablog.com

すぐ読めた。

内容としてはあり得ない小ささの国に住んでる人々がいて、ある日突然国境が縮んでしまい、国民の体が国境からはみ出してしまった、というところからはじまる。

そして出てくる「人物」たちも機械と植物がぐちゃぐちゃに混じった粗大ゴミが服着て歩いているみたいなデザインでどこまでも作り事めいている。

フィルという男がヒトラーであったり「そういった」独裁者のカリカチュアであるのは、一切事前情報もなしに読み始めた僕にもすぐにわかった。

正直あまりにも作り事めいてる世界すぎて、ストップモーションの人形劇を見せられているような気分になるので、感情移入することは難しいと感じた。だが、ついに行きすぎた暴力が、生ける粗大ゴミたちを解体し始めた時、それが人間であったのであれば、ということに思い至ると、それがいかに凄惨なことなのか後追いで理解させられる。

あまりにキテレツで現実味のないお話に見えるのだが、人物たちの造形を除けば、こんなことは人間の歴史で何度も繰り返されたことでありふれたことでしかないのだ。

過去の人類における虐殺や暴力に対する「どうしてこんなことができてしまったのだろう」という感情の裏側にあるのは、この物語を読んだ時に生じる現実感のなさなのではないだろうか。もしそうであるのであれば、実際に過去に悲劇が起こってしまったという現実を踏まえるのであれば、我々が無意識に参照している「現実感」こそが空虚でありハリボテであり作り物なのではないだろうか。

最後に突然現れる創造主。デウスエクスマキナが「機械仕掛けの神」であるのに対して最後に登場した神が余りに自然味に溢れているのは逆にそれっぽさを出していた。

ご都合主義の無理矢理展開。最後に全てをぐちゃぐちゃに混ぜ込んで、綺麗事をつらつらと並べて悪者を1人作り出して大団円。

 

まぁこれが「誰か」なんて議論は既になされているんだそうし今更僕がいうことでもないんだそうが、おそらくこれは後世の我々なんだろう。

当然時系列では後から来ている存在ではあるのだが、歴史を「創る」のはいつだって後からワケ知り顔で批評する未来の人間たちなのだ。好き勝手いって、みんな幸せにね、なんて言いつつ、でもお前だけはダメ、モンスターだから、何ていうことを言ってのける。

つまり、ここで描かれる物語は実は最後に出てきた「創造主」が紡ぐ戯曲に過ぎず、現実感なんてあるわけがなくて当然なのだ。現実はこんなにわかりやすくはないし、もっと複雑で理不尽だ。我々の参照する歴史は常に戯曲であり作り物なのだ、だから常に現実は突然目の前に現れるし、それは現実感を伴わない。ある日突然我々は、いつの日か公演される戯曲の舞台に上がらされる羽目になるのだ。