キャスティングの話
3月ですね。
春というのは人間関係が変わりがちな季節でどうにも苦手だ。
見知った人間が消えて、よくわからぬ人間が増える。
それだけで若干鬱々としてしまう。
今日はそんな話。
キャスティング
最近、「キャスティング」について考える。
人間関係は自分で努力すればどうにかなる部分と、やはりそれだけではどうにもならない部分がある。
我々が(我々が観測する限りにおいて)物理的な存在としてこの世に「ある」限り避けられない関係性というものがある。
それを僕はごく個人的で詩的なニュアンスで「キャスティング」と呼んでる。
我々にはどうしようもない裁量の外側で決まってしまった関係性。
代表的なのは血縁などだろう。
親子というのはキャスティングだ。
ツイッターでは親ガチャなどと言われているけど。
ではキャスティングではない人間関係はあるのか。勿論厳密にはない。
とは言えその要素をなるべく減らした非キャスティング的な人間関係というのはある。
所謂ネットにおける関係などは非キャスティング的な関係だと思われる。
それらはまず、一応物理的な場所には縛られない。ネットという空間そのものに物理的な側面は恐らくあるのだがナマモノとしての空間より自由度は高く個々人の裁量権も大きいだろう。
そしてより非キャスティング的な要素として大きいのは「切断しやすい」という側面だろう。隣に住んでる人間を自身の関係性から除外するにはそこそこな労力が伴うが、ネットで繋がっただけの人間ならばその関係性を解消することは恐らくそう難しくはない。勿論対象が悪意に満ち満ちた人間でなければだが。
ジェイルオルタナティヴ
キャスティングされてしまった人間関係においてはその関係性を「演ずる」必然性が生じる。既に役割は割り振られ、開幕のベルは鳴っている。
演ずることを拒否すればどうなるのか。
相手が演ずることを(意識的にしろ意識的でないにしろ)続けるならばそれに付き合わされることになる。
双方が演じることを拒否すれば寧ろ問題は生じないのだろうが。
招かれざる客
さて、ここで考えねばならぬのは、相手にとっての自分はキャスティング側なのか?ということだ。
自分では非キャスティング的なものだと思ってるが相手からすればそうではないという場合がある。
人間関係とはどちらかにとっては「やって来る」ものであることが多いだろう。
その侵襲性が僕は苦手だ。
相手にとって自分は「招かれざるもの」〈persona non grata〉ではないか?
それを考えてしまう。
だから他者との関係を持つことがとても億劫だ。そしてその億劫さ故に、それを言い訳に、本当に人間関係が上手くいかず本物の〈persona non grata〉になってしまう。
我ながらめんどくさすぎる。
三文芝居
とは言え、そう思えばこそ、相手にとっての自分がキャスティングされたと感じてるのであればこそ、全力で演じれば良いのではないか。それはきっと不自然なことではないし、むしろ自然なことで、そもそも「演じてない自分」などという存在はありもしないし、あったとして無価値なのではないか?
ありのままの自分などと言うモノのは、畢竟、醜悪でみすぼらしいものだと僕は思う。
だったら下手くそでも良いから全力でキャスティングされた役割を演じて、芝居をうまく回していくことがきっと尊いし、賢いのだ。
アンコールは御免被りたいが。