映画レビューのようなそうでもないようなそんな記事です。
映画レビューの記事書くのずっと憧れだったんですよね。ニコニコ動画やYouTubeでも知的風ハットさん*1やその他の方の映画レビュー動画を延々観たり、自分で映画を見た後にそれぞれの映画を考察したりしたサイトを観たりしていました。それらも映画の楽しみ方の一つの形なのだと思います。
さて、そんな僕が今日紹介する映画は
普段僕たちが目を背け、都合よく味付け調理したモノを食べているのだという欺瞞を白日のもとに晒しだし、ひたすら視聴する側への悪意で包まれた「楽しませようとしない」ツンデレどころかデレツンな映画
ファニーゲームU.S.A
目次
ファニーゲームU.S.A.
【この記事は若干のネタバレを含みます】 ですが、ネタバレを気にしない方であればこの記事を読んでから観るか否か判断してもいいかもしれません。
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ファニーゲームU.S.A.
予告映像 ファニーゲームU.S.A. 予告編 - YouTube
観たことがある方ならブログ初の映画レビューでそれかよって感じですよね笑 以下Amazonからの引用 あらすじ
_湖畔の別荘で夏のバカンスを楽しむ3人家族の前に現れた招かれざる客―。 それは純白の手袋をし、純白のポロシャツに素足を晒した2人の美青年だった。 隣家の遣いと称して現れた彼らは、最初は礼儀正しく振舞うが、徐々にじわじわと冷酷で残忍な本性を露わにしていく・・・。 やがて彼らが始める理不尽な“ゲーム”。 何の罪もない、愛に満ちた家庭が純正暴力へと晒される。彼らにはなす術はないのだろうか。 タイムリミットの朝。ゲームの覇者となり生き残ったのはいったい誰なのか・・・?! _
無力な被害者
このあらすじを読んでどんな映画だと思いましたか?
ありがちな暴力的な映画?「サプライズ」*2みたいな家に侵入してきた異常者と対峙するグロい映画?
そうでありながらもそうではありません。
この映画はそういったバイオレンス描写が好きな人ほど観ると「効く」映画でありながら、そういう人ほど「不快」になる映画だと僕は思いました。
この映画で平穏な夫婦の家にやってきた2人の青年は暴虐の限りを尽くします。とは言え、正直そこまでグロい描写はありません。なのになぜ不快になるか。それはあまりに被害者が脆弱で弱く頼りない存在だからです。 アクション映画によくあるような主人公が反撃してスカッとなるシーンがありません。 青年たちはあまりに強く、理不尽な存在です。
暴力としてのエンタメ
例えば、SAWシリーズ、何だかんだアマゾンプライムで全シリーズ観たんですが、1以降も単純にグロ映画としてはそこそこ楽しめました。それは「楽しめるように」作られたグロさであり暴虐であるからです。その暴虐には(シナリオの出来不出来は別として)理由があり、見るべきポイントがあり、我々視聴者を楽しませるものであります。だから、万人ではないものそれを見て楽しいと思えるのです。
対してファニーゲームU.S.Aにおける暴力はどうか。先ほども言ったように、案外グロくありません。だからこそです。リアルだからとかそうではなくて、映し出されるのが我々を楽しませるための暴力ではないからです。ただ、そこにあるものです。
つまり、この映画を見ることでいかに我々が調理加工された暴力を見せられているのかを思い知り、剥き身の暴力がいかに不快なのかということがわかるわけです。
エンタメとしての暴力
さて、先程は観賞用に加工された暴力、つまり「暴力としてのエンタメ」の話でした。今度はその逆、「エンタメとしての暴力」これは何かと言うと、暴力そのものが娯楽となったものですね。先ほどのとは何が違うのか、それは事象的には本当に被害者のいる暴力か否か、という点でしょう。だがしかし、本質的に異なるのはその暴力が剥き身のものでありながら加工されているという点です。
具体的にどんなものかと言えば、ネット上の個人に対する執拗な攻撃などがそれになると思われます。 叩く人は何らかのそれらしい理由をつけて叩きますが、個人が個人を過剰なまでに攻撃して良い理由などあるはずないです。ちゃんと自分の感情を制御できないか弱い生き物だとは自覚してほしいですが、道徳的なことは置いておいて、僕はそれ自体が道理に反するものだとは思いません。だって、見知らぬ他人を無責任に攻撃するの楽しいですもんね。
個人攻撃はネットの登場によってより簡易に行えるようになった娯楽、エンタメの1つなのだと僕は思います。
暴力はそこにある
先ほど僕は「剥き身の暴力がいかに不快か」、ということを話しましたが、なぜ不快なはずの暴力を皆そんなことも感じずにしてしまうか、それは自らの暴力性に無自覚だからです。無自覚ゆえに正当性でもって自らの暴力を加工してしまうわけです。
全ての事象がそうではないでしょうが、彼らは暴力をするに値する理由があると思い込んでいます。そう、つまり彼らは彼ら自身の自己認識の中では「被害者」なのです。
先ほどバイオレンスな映画での主人公の反撃について描きましたが、つまり攻撃する彼らはこの立ち位置に自らを置いているのです。
つまり彼らは「エンタメとしての暴力」を行う過程で「暴力としてのエンタメ」を成立させているのです。まるでウロボロスのような何とも言えない構造ですね。
暴力というものはいかに美辞麗句で飾ろうがあくまで暴力でしかありません。
自衛のものだろうが何だろうが、それは暴力です。
だからだめなのか?と言えば僕は否だと答えます。実際問題、男に暴行されそうになった女性が抵抗のために男の身体を傷つける行いを綺麗事で辞めさせるようなことはあってはならないと思います。議論はあるところですが、戦争もまたそうかもしれません。
ですが、暴力のその「正当性」は、暴力そのものを擁護はしないのではないかと僕は考えます。
あくまでそれを行なった人や存在をさらなる報復などから守るためのものだと考えます。
暴力にエンタメ性を与える免罪符にはなり得ない。
人を攻撃する前、もしくはした後に、果たして今のは暴力だったのか?自分は楽しんでいたか?
せめてそれを問うことはしていきたいですね。
なんだか映画のレビューとは違う感じもしますが、考えていたことをかけて僕は満足です。
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*1:YouTubeで浅井ラムというバーチャルYouTuberの動画があるのでみなさんぜひ見よう 【映画紹介】『ムカデ人間』をレビュー(修正版)【浅井ラム】 - YouTube
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