木曜レジオ

恥の多い人生ですね(達観)

田舎のヤンキーはなぜ感謝しがちなのか -世界と自己との連関を形作る感謝という概念-

こんな記事を開いて貰ってマジで感謝感激雨あられだYO

…田舎のヤンキー何にでも感謝しがちとかツイッターでも時々ネタになってるのを僕は見る。 なぜなんだろう、と常々思っていた。

この記事を書こうと思ったのは以下のツイートをタイムラインで見たのがきっかけ。

なるほど、というツイート。 現場の先生が感じたこの感覚は確かなものなんだろうな、と思った。

それでは感謝ということについて考えてみよう。

目次

感謝とは何を意味している?

感謝とは何か、その語源を辿ることにして、軽く調べてみると以下の記事が出てきたので読ませて頂いた。

感謝という漢字の成り立ちから感謝の本質が見えてくる | 私と私をとりまく全ての価値が上がる!シンプルなワンネスの法則で「大切にされる」私になる。

それによれば「感謝」とは漢字の成り立ちからそれぞれその要素を抽出すると

感:心を動かされること

謝:言葉を射る→外に放つこと

になるそうだ。 なんで「謝る」なんて漢字が「感謝」に含まれてるのかずっと不思議だったが、これを知ると大いに納得するものである。

言葉を外へ放つことそのものが「謝」であるのだ。

つまり感謝とは「感じてそれを放つこと」

外から受けてまた外へと放つ

そんなダイナミズムがある言葉だったのだ。

語源的に考えれば「心の中で感謝してる」なんてのは感謝してることにならないわけだ。

外部世界との照応

冒頭に挙げたツイートでは感謝をできるか否かが精神疾患の予後に関わりそうな気がする、という話であった。 先ほどの話を考えればこれはかなり納得のいく話なのかもしれない。

感謝するために必要なことは2つ。

心動かされること

言葉にして外に表出すること

これはつまり、自己と世界との関係性が双方向的であるのか?一方的になっていないか?という話でもあるわけだ。 この関係性が不健全であれば、精神のどこかに不全がもたらされることは不思議ではない、と僕は思う。

田舎のヤンキーはなぜ感謝しがちなのか

これは完全に僕の憶測だし、本当にツイッターで言われるように田舎のヤンキーが感謝しがちなのかは分からないが、取り敢えずそう言う前提で少しばかり憶測をしてみる。

田舎のヤンキーと呼ばれる人たちが属するのは地元という地域社会そのものであって、人と人との関係性が明確で、物理的にも精神的にも「近い」関係にあると思う。 そこにおける自己と外部の関係性は恐ろしく明確になるものと思われる。 自己の体験や記憶そのものがそのまま丸っと人間関係や社会所属を含めた世界そのものと照応するのだ。 つまり、「感じやすい」し「放ちやすい」のだ。

感謝をするために

ここでは敢えて、感謝することの道徳的な意義は捨て置いて、自身の精神の健全の為に「ライフハックとしての感謝」を考えていく。 つまり良い悪いは置いておいて、取り敢えず感謝をしてみようというわけだ。

感謝をするために必要なことは何か。

まず、しっかりと世界を認識すること、それを表面ではなく、一度自分の心で受け止めること そして、受け止めたものを外部の世界に言葉という伝わる形で返すこと。 そうやって、世界と自己とのパワーバランスを整えてやるのだ。

ここまでこんな偉そうなことを言ってきた僕だが、僕は感謝の念を抱くのがとても苦手な人間だ。 他者の好意や親切といったものに恐ろしく鈍感でスルーしてしまう。

まぁクソ野郎なわけだ

だが、このクソ野郎加減の根源は僕自身が人格的に最低だとか非道徳的だとか言う以前の問題で、好意や親切を「感じられていない」からなのだ。

内部世界への指向性が高く、外部世界へのアンテナが弱すぎるのだ僕は

そんな自己反省を踏まえつつ、もう少し世界をよく見て、感謝できる人間に、自分のためにも、他人のためにもなりたいと思った。

これクリックしてもらえたらマジ感謝だYO

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