木曜レジオ

恥の多い人生ですね(達観)

「所有と恋愛の考古学」の補足と反省

前回こんな記事をノリと勢いで書いた。

所有と恋愛の考古学 - 木曜の医師国家詩篇

(まだ読んでない方はこちらを先にどうぞ)

少し時間をおいて落ち着いて改めて整理し、考えたことがあるので補足記事を。 とは言え自分の為に書いてるものなので、もし読んでくださる奇特な方がいても流し読みするようにお願いしたい。

目次

そもそも

冒頭でも書いたが、前回の記事はノリと勢いで書いたものであって、正しさなどは二の次、三の次で僕がひたすらに何か文章を書きたいという衝動のままに書いたものであって正直妥当性はない 前回引用した記事二つも「所有 概念 歴史」でGoogle検索にかけると上位3つの中から2つ選んだもので特に信憑性があるわけでもない まぁ言い訳なのだが その上で、敢えて反省と補足をしていく

考古学

前回の記事を読んでくれた人文系の学部に通うフォロワーさんから、実際の歴史的背景との齟齬を指摘された。おそらく中盤の「所有の歴史的発生」の過程に関するヴェヴレンの考察には大いに歴史的事実と齟齬があるものと思う。 この経済学者ヴェヴレンもそうなのだが、同時代のマルクスも自分の理論に都合がいいように原始社会を想定している嫌いはあると思われる。 ルソーあたりからの系譜なのだろうか? 筆者が以前読んだ「マルクスを再読する」という本でマルクスが想定した原始社会についてあれやこれやと実際の歴史との齟齬が生じていることを理論立てて説明していたが、正直言い訳にしか聞こえなかった。(生まれて初めて読んだ哲学関係の本だったが、とても面白く読めた。スピノザと出会えたのはこの本のおかげだ)

まぁ僕が誤読している可能性は高いのだが(読んだのも一年以上前で記憶が曖昧だ)、正直原始社会に関する考察は一旦否定してもいいと僕には思われる。 そんなことをしたら前回の記事を全否定することになるではないか、と言われるかもしれないが、あの考察に関して注目に値するのは「人間が所有するのに向いた存在である」という考察部分だと思う。 その一点に関してとても鋭い視点であると僕は感じた。

所有しやすさ

そう、人間は「所有しやすい」のである。消費期限も基本的にはないかもしくは長い、そして移動させることがある程度できる、嗜好性も高く、個人的に大切なのは「自分の所有物であると、被所有物が証明できる」ということだと考える。土地やモノ動物であっても、それが自分の所有物であると証明することは案外難しい。だがしかし、人間ならば宣言させて仕舞えばいいのだ。ここで誤解をして欲しくないので説明すると、僕は別に「恋人は所有物だ」と言いたいわけではなくて、そのように言わせることができる、ということである。所有物、という不躾な言葉でなくても、恋人であると宣言させることはある種の言い換えとして機能することはあるはずだ。 このような性質から、他者、恋人を所有物のように扱ってしまう人間が出てくることはある程度必然なのだと考える。 とは言え僕はこのことに対して全面的に否定的なわけではない。

敢えて「所有」として捉える

恋人を所有物扱いすることは当然褒められたものではないが、全くの「所有性」を恋人に求めないこともまた難しいのではないか。例えば、恋人が異性の友人と2人で映画を見ることに忌避感を抱く人は少なくないだろう。本来独立した人間であればそれを止める正当性などないと僕は考える。それが問題になるのはその人物に対して自分が持つ(と思い込んでいる)所有性を侵害されるからだ。 だからこそ敢えて所有性を多かれ少なかれ、恋人に求めてしまうという前提のもと、「所有」を肯定的に捉え直そうとしたのが、前回の記事の終盤である。 所有が持つ性質は「排他性」だけではなく、むしろ歴史的に先に現れるのは「生産性」であった。 所有することで生まれる生産的な関係性 それがどんなものか僕にはまだわからない、だがきっとあるような気がする、そんなことを前回の記事を書いた僕はきっと感じていたのだろう。

毎週木曜更新とか言いながら、早速先週の木曜は更新もせずにすっぽかしてしまった。全くもって僕らしい。 まぁでもこんな感じで更新していきたいな。