木曜レジオ

恥の多い人生ですね(達観)

所有と恋愛の考古学

またもや恋愛関係の話です。ですが語り手が僕である限りきゃっきゃっうふふな話になどなりません。

目次

少女漫画における俺様系の男子

こんなフレーズを聞いたことはないでしょうか。

お前は俺のものなんだからどこにも行くな!!

俺のものになれ!

俺様系の少女漫画の男ですね。僕的には全くときめかないんですが、きゅんきゅんしちゃう女の子もいるんでしょうね。まぁ流石に上記の例はちょっとクサすぎて少女漫画でもそんなにメジャーな存在ではないと思いますが、恋人を「所有物」のように扱う人の存在は現実世界でもよく観測されます。

創作物におけるヒロイン

さて、なぜ今回このような話題にしたかというときっかけはこの記事。(以下突然、丁寧語表現が消えますが、仕様です)

ヨヨ(バハムートラグーン)に学ぶゲームヒロインの理想の姿 - 雑炊閣下備忘録

記事の内容を簡単にかいつまんでいうと、昔のゲームに擁護派と非難派を生み出し喧喧諤諤の大論争を引き起こし、未だに話題に上る悪女キャラが居る、という話。その中でこのブログの著者・雑炊閣下(以下閣下)は「ゲームにおけるヒロインキャラクターをプレイヤーは無意識のうちに所有物のように扱う」ということに言及している。簡単に言えば「こいつは俺の所有物だから『望むように動くはずだ』」と言うわけである。(詳しくは是非ブログの内容を読んで頂きたい、読み応えのある記事である) そこで僕は思った。 「現実世界の彼女を所有物のように扱う人間も割といるよな」 と。 閣下との後日の議論が以下のものである(右が筆者で左が閣下)。

さて、ここでこの記事の本題に入って行くわけである。 なにやら深そうな関係がある「恋愛」と「所有」。そこに何らかの歴史的な背景は果たしてあるのだろうか。

経済学者ソーステイン・ヴェブレン

https://g.co/kgs/R3XsYx

大恐慌を目前に没した経済学者ヴェブレン。 彼の「所有権」の起源の考察を基に記事を進めていこうと思う。 因みにヴェブレンの考察に関しては以下を参照した。(とても面白く読めた、製作者の方に感謝、興味のある方は是非読むことをお勧めする)

所有権の起源

さて、この考察の内容を僕が独断と偏見でもってまとめてみよう。

原初人類において、制度としての所有権の概念の前にあった似たカテゴリの概念は「人格的辺縁」と呼ばれるものだ。僕なりにどんなものか説明すると、それは身体を超えて人格的な延長線上にあると考えられるもので、例えば「足跡」である。 自分の足跡に対して所有権を主張する人間はなかなかいないであろう。たがしかし、例えば自らの足跡を目の前で見知らぬ男が憎々しげに踏みつけ唾を吐けば嫌な気持ちにはなるであろう。コレが「人格的周縁」である。 原始社会、まだ貯蓄するほどの材を共同体が持たなかった時代、例えば一部の武器や装飾品が個人の所有物であったと考えられる。 これらはあくまで日常的に使われることで「慣習的に」ある人物に帰属しているだけで、社会制度として所有されているわけではない。それらの武具は所有制度の起源ではなかった。 これらは当時の人間達からすれば所有物というよりは「人格的周縁」として存在していたのである。ここで注意すべきは我々から見て所有物に見えるから彼らにとって所有物である、というわけではないことである。あくまで所有しているように見える「人格的周縁」であるということだ。

個人の所有と共同体の財産についての考えは以下引用を参考にしてもらいたい。

所有権は、慣習的請求権に基づいて公認された、物にたいして裁量する力であり、所有者が所有物にたいする処分を思案する人格的主体であることを意味している。人格的主体とは個人であり、何らかの人の集団が一団となって物にたいする裁量権を行使すると考えられるようになるのは、法的擬制の本質が行き着くところまで精緻化されることによってなのである。所有権は個人的な所有者を暗に意味しているのである。反省によって、そして既にもう慣れ親しんでしまった概念の適応範囲を拡大することによってのみ、こうした種類の疑似人格的な集団的裁量および管理は、人の集団に帰することができるようになったのである。したがって、共同体所有は必然的に派生的概念であり、それがまねている個人的所有の概念の概念に先行することはできないのである。

「所有制度」いう概念が生まれるためには他の共同体からの「強奪」とその「貯蓄」が行われねばならなかった。 共同体が成長し力を蓄え他の共同体を圧する余裕が生まれ強奪が行われるわけだが、例えば先ほど述べた武具や装飾品、これらは「誰々より奪いしもの」となり一見強奪者の所有物となったようであるが、それらの装飾品の主な価値は人格的辺縁である「誰々」の部分であるのだ、それこそが武勇を生み、その人物の輝きとなった。所有権の譲渡が行われたわけではない。そしてそれが富を生むこともない。それでは食物などはどうか。食物の多くはこの当時保存ができない、それ故に所有という概念が生まれるより前に消費されてしまう。所有の概念を生むためには耐久性がなければならない。

では「何」が強奪され貯蓄されたたのか?

ヴェブレンは女性であると結論している。

以下引用

男性の奴隷階級が存在するところ以外では、女性は原始的集団の中で、より役に立つばかりかより簡単に管理できるものである。その労働は集団にとってその扶養をおぎなう以上の価値があるし、武器を持っていないので男の捕虜より脅威が少ない。女性は非常に効果的な勝利記念品という役目も果たすし、またそれゆえ、捕獲者には、証拠として、捕獲者であるという彼女らとの関係を跡づけ保つことは価値がある。この目的のために、彼は捕獲した女性たちにたいして支配と強制という態度をとり続けるのである。そして、武勇の印であるから、彼女たちが競争相手の戦士のいいなりになることを許さない。彼女たちは命令と強制にぴったりの被支配者である。彼女たちを支配することは、彼の名誉と虚栄心のどちらも満たしてくれるのであり、この点での彼女たちの有用性は非常に大きい。しかし彼女たちにたいする支配は彼の武勇の証であり、捕獲者の強制的関係の証となる彼の女性たちと他の男がなれなれしくすることは、彼女たちの勝利記念品としての役割と両立しない。

女性は女性であるが故に長期的に存在し、耐久性を有し、労働力としてもその価値は長期の期間持続する。彼女たちは同時に武勇の証明でもあった。それ故に他者の容易な干渉を拒絶し独占し支配した。かくしてここに「制度的所有」の概念が生まれたのである。

これでようやく「所有」と「恋愛」が結びつくわけである。

現代日本において当然恋人を「強奪」する人間はおそらくそれほど多くはないと思う。だがしかし、配偶者という存在が「所有」概念と恐ろしく相性がいいということは言えるのではないだろうか?武勇などは現代的に言えば「社会的ステータス」などになるのだろうか。 加えていうならば、女性的な男性、男性的な女性や同性愛などが広く認められる現在、僕個人はこの「所有」は男性から女性に対するものに限定する必要はないと思う。上記の「所有に都合がいい」性質は人間ならば誰もが持ちうるものだ。

所有概念の変化と恋愛のあり方

さて、大きな本題は終わったのだが、せっかくなのでもう少し話を進めよう。

以下の記事を参考に話を進めていく。

プロパティ概念の歴史 ( メンタルヘルス ) - さて何処へ行かう風が吹く - Yahoo!ブログ

この記事はプロパティ(所有)概念の変化についてのものである。

以下引用

ホッブズ(Thomas Hobbes, 1588-1679)にとっては、人間のプロパティの対象は「じぶん自身の生命と身体、それに次いで(ほとんどの男性たちの場合には)夫婦間の愛情にかかわる事柄、そして、優先順位の上で最後に来るものとして、富や生計の手段」(Leviathan, 1651, Ch. 30, pp. 382-3 [Pelican Classics, Macpherson, C.B. ed.])であった。

17世紀の所有権の定義としてこう書かれている(ここでも夫婦間のことについて書かれていることは非常に興味深いことである)。なぜ富や生計の手段が下位に位置するかと言えば身体的な健康によって初めてそれらが生み出されるからであったらしい。

この時期に起こった所有概念の変化として、「排他的所有権」という概念の狭隘化があったのだという。 狭隘化とは何か。 最初にあげた所有概念とは「何かをするための」所有概念であった。では狭隘化した所有概念とは何か。それは「他者を排他する」所有概念である。「コレは俺のものだから触るんじゃねぇ」と言うわけである。所有性そのものが排他性を内包し始めたのである ここで、恋愛に侵入する所有概念を思い出していただこう。 他者を排他する恋愛。 かなり聞き覚えがある概念なのではないだろうか、言ってしまえば卍卍卍女絡みいらん卍卍卍などである。…もう少し真面目に言えば「独占欲」などであろう、あれは所有物としての恋人というあり方の一つの側面であるのだと以上のことから考えられるのだ。

排他的所有/恋愛を超えて

まあ結論らしい結論などありはしないのだが、以上のことを踏まえていただければ(こんな冗長な文章をここまで読んだ人間が果たしているのか)、恋愛と所有の概念が包含関係などではないにしても、相性が良く、一般論として注意すべき関係性にあるとは言えるのではないだろうか。 さて、前章で所有概念の元々の広義の意味として、「何かをするための所有概念」というものを提示したわけだが、それを「恋愛」に当てはめて考えることはできないだろうか。 恋愛と所有の関係に拘泥してしまった人は「排他」することに取り憑かれている人もいるのではないか、そうでなく、たとえ所有的関係であったとしても、所有の持つ生産的な側面を考えてみてもいいのかもしれない。

疲れた。

後日補足記事を書きました。 そちらもよろしければどうぞ。

「所有と恋愛の考古学」の補足と反省 - 木曜の医師国家詩篇