「いつまでも嫌なことから目を背けていたらダメだよ」
八瀬先輩はそう言った。
「いや、なんで肝試しの誘いを断っただけでそんなこと言われなきゃなんないんですか」
僕たちは学食に居た。僕はオカルト研究会の幽霊部員だ。そもそも八瀬先輩に1年生の頃誘われたのがきっかけだった気がする。本来ビビりである僕はオカルトとなんの縁もなかったのだが、というか縁など作りたくない人間だったのだ。だがしかし、まだ大学に入りたての浮かれポンチだった僕はこの八瀬先輩の新歓営業スマイルにほだされて気づけばオカルト研究会に入っていたというわけである。意外としっかり活動している会だったようで、肝試しに始まりホラー小説を書いたり、遠野に行ってみたりといろんなイベントがそこそこの頻度で行われていた。部員たちの雰囲気も良くて、僕は意外にもオカ研に馴染んでいった。だがしかし、1年前から八瀬先輩が就職活動で顔を出さなくなって以来、なんとなく僕もオカ研への足が遠のいていった。別に八瀬先輩目当てで行っていたわけでもない、はずなんだけれど。
八瀬先輩が来なくなって1年。そんなタイミングで僕は八瀬先輩に再会した。
「肝試しもそうだけど、就活もほとんどしてないって萩原ちゃんが言ってたよ。オカ研にも行ってないらしいし」
「・・・まだ、いいんですよ」
まっすぐ見てくる先輩の目線から目をそらしつつ僕は答える。
「ほら、また逃げてる」
「ぐぅ・・」
ビビりだもんねぇ、と八瀬先輩は言った。そんなことは言われなくともわかっている。自分が姑息で卑怯なことくらい。逃げてもいつかは向き合わなきゃいけないことくらい。
「まぁそれは置いといて」
「置いとくんすか」
さんざん人のデリケートな部分を踏み荒らしておいて、その上で、
「最後の思い出作りだと思ってさ、頼むよ」
笑顔で頼まれると僕が断れないことをわかってこの人は言っているのだ。
当日、オカルト研究会メンバーは6人招集されていた。
「こんなとこ良く見つけましたね」
集合場所は住宅街の外れにある一軒家だった。二階建てで少し古ぼけている。庭の草は伸び放題でどの部屋の窓もカーテン中がうかがえない。
まぁ、空き家なのだ。
「そこそこ有名な家らしいよ」
八瀬先輩が屈伸をしながら言った。
「元々は4人家族が住んでたらしいけど、全員この家で死んだんだってさ」
「確か、餓死でしたっけ?」
同期の田崎が言った。餓死?現代日本では珍しい死因かもしれないがないわけではない。とはいえ、こういった家にまつわる話ではいささか珍しく違和感がある。
「えー?血の海だったって聞いたけど」
懐中電灯の動作確認をしながら荻原が言った。
「一家惨殺的な?」
それならよくある話だ。怪談としては。
「さぁ詳しくは知らないけど。そういう幻を見るとかなんとか?」
「あれー?俺は溺死って聞いたけどな」
林田さんが首をかしげる。
「えー?井戸か何かあるの?」
「さぁ、知らねぇけど」
「バラバラ過ぎないですか?」
こういった怪談で尾ひれがつくことはよくあるがいくら何でも滅裂すぎる。気味が悪い。得体が知れなさすぎる。
俺たちがなんとなく黙り込んでいると八瀬先輩が言った。
「いいじゃんいいじゃん、意味わかんない感じで」
八瀬先輩はいつもの笑顔で行ってみよー、と手を振り上げた。
中に入ってみると、なんてことはない一軒家だった。ただ、物が異様に散乱している。それに壁に異様にシミが多い気がした。廃屋に入るのはこれが初めてではないが、それでも何か違う感覚はした。
「雰囲気あるなー」
林田さんがのんきな声を上げる。それぞれの懐中電灯で思い思いの場所を照らす。
リビング、キッチン、風呂、客間、トイレと順に見て回る。
「なんもねぇなぁ」
「そう、ですね」
僕はそう答えつつ、異様なものを確実に感じていた。それはほかのメンバーも同様だったみたいだ。
段々足取りが重くなってきているのを感じる。昔、田植え体験をしたときに似たものを感じたのを思い出した。
「あれ、どうかしたか?」
林田さんの問いかけは八瀬先輩たちに向けて発せられたものだった。見てみると三人とも、天井を照らしている。
「何か上から聞こえました?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど、なんか上が気になって」
八瀬先輩も妙に焦ったような不安なような不思議な表情をしていた。
トタタタ
その時二階から何かの足音が聞こえた。
全員が2階を凝視する。
「え」
だれかの声が漏れる。
きっとネズミのはずだ。だが、しかし。
「2階に行ってみよう」
八瀬先輩が僕に言った。この状況、普段であれば確実に拒絶していたはずなのに、なぜか僕は頷いていた。階段に向かって登り始めてすぐに僕たちはおかしなことに気が付いた。踊り場にバリケードが設置されていたのだ。
「なんだこれ」
机や、本棚を重ねたようなバリケードだった。おそらく子供部屋にあったものなのだろう。児童向けの本が見える。
子供部屋、ということは2階から降ろしてきたものなのか?
そんな疑問を覚えた時、萩原の声が聞こえた。
最後尾から僕らについてきていた萩原が僕らの足元を照らしながら言った。
「ねぇ、なに、それ」
思わず足元を見ると、ひざ下まで僕らの足はどす黒い汚水で染まっていた。その瞬間、急激に鼻腔に鉄のにおいが広がる。血の匂いだ。
「萩原!!」
林田さんが焦った声を上げる。階段の2段目付近にいた萩原は太ももの高さまで汚水に沈んでいた。
ごぽぽ
「え?うそ、なにこれ」
ごぽ
さっきまで聞こえていなかった匂いと音が急激に鮮明に感じられるようになる。1階はどす黒い汚水で満ちていた。
「萩原ちゃん!!!」
恐怖と混乱で硬直していた萩原に林田さんが手を伸ばす。すでに汚水は萩原の腰を覆い始めていた。
「あ、あ、あ」
震える手を萩原が伸ばす。林田さんが手をつかんだその瞬間、汚水の中から何かに引きずり込まれるように萩原が沈んでいった。それに引きずられるように林田さんも汚水に飲み込まれる。
「クソ!」
そう叫んだのを最後に二人は汚水の中に消えた。
どぽん ごぽ
ごぽぽ
そんな音を立てながら、汚水はさらにその体積を増し始めた。
「に、二階に!」
八瀬先輩の声にはじかれるようにして田崎と僕はバリケードを跨ぎ超えた。
必死で2階にたどり着くと、そこは1階と違って、きれいな状態だった。物が散乱していない。ただ、薄く汚水が床に広がっている。
「どうなってんだよ」
田崎が言う。
「無意識に僕らは足元から気をそらしていたんだ」
気づいていたんだ、足元が一番やばいことに。だから、足元の汚水から目をそらして、2階に逃げようとしていたのだ。そしてそれは多分、
「元々の住人も同じだったのかもね」
八瀬先輩が言った。
溺死、したのだろう。家の中で。
そうして1階で死ななかった家族の残りが2階に逃げて、
「餓死したのよ」
突然聞こえた子供の声に振り向くと、部屋の一室から10歳くらいの女の子が体をのぞかせていた。
「あの〈水〉のせいで、パパとママも溺れちゃって。私たちも出られなくて」
その時にはもうすでに僕はこの異常な状況に飲み込まれていて、その子がおそらく死者であろうことも受け入れていた。
「今までは、あの本棚のところまでは大丈夫だった。でもそこから下に行こうとするとあの水がワッっと出てきちゃう。しゅん君は飲み込まれちゃった。でも、お兄ちゃんたちを飲み込んでもっと増えちゃったのかも」
ごぽ
ちゃぷ ぴちゃ
階段の最上段で汚水が跳ねるのが見えた。
「な、なぁ、2階に窓はないのか」
田崎が言いながら、部屋の中に上がり込む。
子供部屋だった。家具はベッドしかない。バリケードを作るために動かしたためだろう。
窓はあった。
田崎が駆け寄りロックを解除し開けようとするが開かない。僕も駆け寄り、一緒に窓枠を引っ張る。が、びくともしない。
ちゃぷ びちゃ バシャバシャ
みるとすでに床に汚水が浸水し始めていた。
「あーあ」
少女が言う。もうここもだめだね。
「叩き割るぞ!」
田崎がどこからか見つけてきた鋏を握りしめて窓ガラスを殴りつける。
ごぽり
窓のサッシの隙間から汚水があふれ出る。田崎が思わず飛びのき、尻もちをつきながらそのまま沈んでゆく。
「田崎!!」
「ねぇ、なんで君はここから出ないの?」
八瀬先輩が女の子に問いかける。
「そんな場合じゃ、」
「だって、もう、満ち満ちているんだもの」
出会ったった時から一歩も動かないその女の子がカパリと口を開く。
ごぽり
女の子の口と眼窩から汚水が噴き出す。
どうして、2階は安全だったはずなのに。
「違う!こいつが水源なのよ!」
水は上から下に流れるものだから。
八瀬先輩はそう叫ぶと女の子を抱えて階段から汚水へと飛びこんだ。
「そんなに満ちたきゃ、自分で味わえ!」
「先輩!」
とぽん
ひざ下まで汚水につかり、重い足をばたつかせながら僕は1階をのぞき込む。しばらくは水面は静かだったが、急激に水位が下がっていくのが見えた。
水位がある程度下がったのを見て僕は階段を駆け下りた。
ぐちゃぐちゃになった1階を走りまわると、みんながいた。
「おぇ」
「おげぇ」
おもいおもいに吐いているようだ。
良かった。思わず安心したが、先輩が女の子を組みしいているのに気付いた。
「幽霊も溺れるんだね」
先輩がにっこり笑いながら女の子の口をふさいでいた。女の子は自分の吐いた汚水でさらに溺れている状態だった。
ごぼ、ごぼぼ
萩原と林田さんは目の前の情景と状況にえづきながらも混乱していた。
「え?え?ウェ!」
「今のうちにここを出ましょう!」
田崎がそういうと、先輩もうなずき、全員で玄関に向かって走り出した。
玄関は開いていて全員団子になって飛び出した。
「みんな、どうしたん?」
玄関の向こうにいたのは6人目のメンバーである立川だった。
「結局何だったんですかね、あの家」
数日後、大学構内で先輩に会い、二人で自販機で買った飲み物を飲みながら立ち話をしていた。
「きっとあの女の子、もとは普通の子だったのかもね」
「というと」
「始まりはきっとあの汚水がどこからか沸いてきて、両親が溺死した」
ただ、その汚水はあのバリケードの高さまでしか上がることがなかったのだと思われる。そこであの女の子とおそらく弟は二人避難したのだろう。そんな中で、不注意からか弟は汚水に飲み込まれてしまった。一人残された女の子は二階の部屋で餓死した。その飢えた魂とあの汚水が結びつきあのような形になったのだろうと先輩は語った。
立川は約束の時間に15分遅刻しただけだったようだ。彼が約束をドタキャンするのは常だったので、あの日も立川を待たずに家の中に入ったのだ。だが、僕らがあの家にいたのは15分どころではなかったのでおそらくあの家の時間の流れはおかしなことになっているのだろう。
「いや、なんか嫌な家やなと思いながら玄関開けたら、ぶっわーきったない水が流れ出てきて、なにこれ、と思ってたら先輩たちが転がり出てきて。びっくりしましたよ。水も気のせいだったみたいですし」
あの後、立川にみんなで焼肉をおごる2次会になったのは言うまでもない。
「結局、何もできませんでしたね、僕は」
「まぁそんなもんだよ、思い知ったんじゃない?」
意地の悪い笑顔で先輩はそう言った。そもそもあんたのせいでみんな巻き込まれたんだぞ、と心の中でツッコむ。まぁ水面の上昇を止めたのは先輩なんだろうけど。
「いやなことから逃げてもいつかは追いつかれちゃうってことですかね」
仕方ないし頑張るか、と僕はそうつぶやいた。