木曜レジオ

恥の多い人生ですね(達観)

新歓予定運命論

四月にもなり、大学生は新歓の時期です。

僕自身とある部活に在籍し、新歓されたり新歓したりもしました。

そんな人なら一度は「ノルマ」と言うことを意識したのではないでしょうか。

 

最低でも5人、1年生を入れよう

 

みたいな

実際僕も二年生の時、先輩から言われたりしました。でもこれっておかしくないですか?1年生はもう大学生で自我を持った人間です。(自我とは、みたいな話は一旦置いておきます)

そんな彼らが自分たちの部活に入るかどうかなんて、僕たちの努力の範囲外の出来事じゃないですか?

 

だったら新歓を頑張る意味なんてないのでは?

とはいえ頑張らないわけにもいかないし

 

そんなことを思った僕がたどり着いたのが

 

新歓予定運命説

 

です

 

目次

 

そもそも部活とは

部活とは組織です。それも場合によってはかなりの人間が関わってくるような。

 

そこに生じるタスクは複雑で多岐に渡ります。僕自身はあまり仕事をせず迷惑かけまくってた人間であまり偉そうなことは言えませんし、そもそもこんな文章を書く資格もない人間かもしれません。しかしまぁ、続けます。閑話休題

 

そのタスクに伴う労働に対して、基本的に対価は支払われません。後輩や先輩からの尊敬や高感度は得られるかもしれませんが、お金をもらう事はほぼ間違いなくないでしょう。

 

では何故、皆働くのか。部活に献身するのか。

 

誤解を恐れず雑に一言で言うなら宗教です。

 

宗教的情熱の献身で持ってしてそれはなされるのです。

 

見返りを求めぬ献身のみが部活を成り立たせます。

 

それ故に、部活には宗教的な雰囲気や狂気が必然的に伴うのだと僕は考えます。

 

こんな言い方をすると僕は部活大嫌い人間なのかと思われる方もいるかもしれませんが、バカにする意図はありません。僕は僕の属する部活は大好きですし、同じように宗教も尊いものだと思います。

 

新歓

新歓は部活による新入生の取り合いです。とは言え新入生はバーゲンセールのモノではありません。生きて自分の意思を持った人間です。

 

そんな彼らをコントロールしようとするのが新歓です。

それが善意にもとづこうが否が。

 

中には詐欺のように伝えるべき情報を伝えず、聴き心地良い言葉だけ並べて入部させるようなこともあるんでしょう。

 

でもそれって言ってしまえば詐欺ですよね?

 

ある程度は仕方ないことなのかもしれませんが。

 

僕は医学部の部活しか知らないので、他の大学や学部のことを知りませんが、医学部に限れば、総合大学でもキャンパスや部活が別だったり、ましてや単科系の大学ならなおさら新入生の数は限られてしまい、その争奪戦は苛烈なものとなる傾向はもしかしたらあるのかもしれません。

 

そんな中で上回生の必死さとは裏腹に、母数の少なさからその獲得の困難さは必然的に高くなります。

 

運命論

新入生は自由意志の持ち主です。それも成人している。ですから、上回生によるコントロール下における、なんてのは傲慢な考えだと僕は思います。もしも彼らにとって本意でない決定をさせるとしたらそれは、詐欺です。

 

僕たちにできるのは、自分たちのあり方や姿を見せて伝えて、入部してほしいという気持ちを伝え、彼らの選択肢の1つとして提示することだけです。逆に言えば認知させることだけは絶対にしないといけません。知らなければ選びようもないのですから。

 

新入生は「運命」そのものです。僕たちにはどうしようもなく、勝手に回り出す歯車です。

それに対する僕たちは「その歯車がいつか走るかもしれない道」の1つであるだけです。

 

となると、もはや新歓って頑張らなくてもいいのでは?となりそうですが、そうではない、と僕は考えます。

 

カルヴァンの予定説

カルヴァンという人物をご存知ですか?

世界史選択者の方なら名前は聞いたことがあるかもしれません。もしくは宗教に興味のある方は。たった1人の男が宗教的情熱によって1つの街を支配したことがかつてありました。

そのカルヴァンが語ったのが予定説という思想でした。

カルヴィニズム Calvinism・二重予定説 Double predestination

ここから語る「予定説」の話は僕の曖昧な知識と認識に基づくので話半分に聞いてください。

 

カルヴァンの予定説を要約するとこうです

 

全知全能である神はあらかじめ、誰を救うかは決めている。

だから、人間ごときが神様のご機嫌とりに献身をしたとしても全く意味がない

ただし、神に救われることが決められた人間ならば当然「神への献身を行う」はずである

 

 

現代を生きる僕たちからすれば何を言ってるんだという話ですが、このロジックの恐ろしいところは、カルヴァンの言葉を信じた人たちは「自らが救われる側の人間であることを証明するために、より一層神への献身を行うようになった」というところにあります。

 

何か行動をするときに彼らは常にこう考えます。

 

私は神に救われる人間だ。であるならばどう行動するか?

 

信じるものは救われる、ではありません

救われるから信じるのです。

 

最初に僕は部活とはその献身という性質で持って「宗教」だ、と言いました。

であるならば、そこで行われる行動の動機もある種の合理を超えて宗教的であっても良いのではないでしょうか。

 

そう考えた僕は、新歓における努力にカルヴァンの予定説における献身を見出しました。

 

新歓予定運命説

ここまでのことをまとめると

 

新入生とは運命である

 

運命であるが故に我々の手に届かない

 

手が届かないが故に手を伸ばさねばならない

 

ということになります。

 

つまり、新入生である彼らをコントロールしようとするのは傲慢で間違っているが、何もしなくて良いわけではなくて、あらかじめ定められた、入部という運命の道筋に沿うように新歓はしなければならない。という感じになります。

 

何言ってんだこいつって感じですよね。

 

僕もそう思います。

以上僕の個人的な信仰のお話でした。

 

新歓時期、新歓する方もされる方も、色々悩んだり苦しんだりすることと思います。

ですが一度、自分の人生のかなりの部分は自分の思い通りにならないということを素直に受け止めて、その上で自分自身の選択に少し無責任になってみてもいいのではないでしょうか。

 

良いも悪いも運命です