木曜レジオ

恥の多い人生ですね(達観)

記録の記憶

高校生の頃、今以上に文章作成能力がなくて、何かの合宿の折に書いた体験記をクラスメイト、先生、親の全てから否定されて小馬鹿にされるという体験をした。

冒頭のは確かこんな感じだった。

「山だ!」
僕が山頂に着くと、そこは白い雲に包まれ足元の遥か下で稲妻が地を這っていた。
「宿だ!」
僕が宿に着くと、そこは硫黄の匂いに包まれ、ずぶ濡れの財布と札束が布団にぶちまけられていた。


以降ずっと「〇〇だ!」から始まる定型文が続くのだ。
なぜそんな文章にしたのかは全く覚えていない。
なんで体験記でポエムを書いてしまったのだろう。
だがしかし、おそらく何かを体験する僕の内面はこのように非常に単純な形をとっているのかもしれない。
僕はキャパシティがなくて、体験が体験であること自体にいつも押しつぶされてしまいそうになる。受け止めきれない。
何かを体験する時、僕のフォーカスはその一点に凝縮される。さながらレンブラントの「夜警」のように。
そこからじわじわとインクが染みるように不均一に歪みを持って認識が触手を伸ばしてゆく。
きっとあまりに世界が情報過多だから、極端な取捨選択を行っているのだと思う。
困るのは取捨選択する出来ない状況で、その時僕の世界はどこにも焦点が合わず、全てが遠景のぼやけた景色になってしまう。
しかし考えてみれば、総体として歪みが少ないのはきっと後者の見え方の方なのだろう。ありのままの世界に相対しているのだ。
あぁ、なんて世界は広く恐ろしいのだろう。