恋愛論と恋愛-医学と医療
いつも通りの独断と偏見に満ちたポエム。(4分ほどで読めます)
第一回並列怪論シリーズ
恋愛論と恋愛-医学と医療
目次
ツイッターでの恋愛ツイート
ツイッターを半年もやれば、恋愛系のツイートを何度も見る羽目になる。皆の関心が高く、多くの人間が共有できることもあってかよくリツイートされ、さらにそれに対するアクションが起こる。 時として恋愛に対する価値観の違いからかちょっとした炎上に発展したりもする。 なんであぁも対立する羽目になるのか。
恋愛論と恋愛
さて、ようやくタイトルの内容に入って行くのだが、「恋愛論と恋愛」とは何のことかというと、簡単に言えば、付き合う前に「好きなタイプ」として語っていたものと「実際に付き合う相手」には齟齬が生じることが屡々あるという話である。 これは僕自身がツイッターをやってて感じることなのだが、皆自分の個人的体験にすぎないはずの恋愛経験から恋愛一般を語ろうとする傾向がかなり強い。 恋愛とは人間と人間の関係であり、その人々同士の結びつきの在り方であり、人の組み合わせだけの可能性がある。其処にはある種共通のフォーマットがあるだけで中身に普遍性はあまりないと思うのだ。 恋愛論は語れば面白いものだし、それぞれの哲学が透けて見えて面白いものだ。だが、それを不用意に他人の恋愛に適用しても良いものだろうか?
医学と医療
さて、ここまで来たら僕が何を語りたいのかなんとなく見えているかもと思う。 …お前のポエムなんか読んでも誰もワカンねぇよという心の声も聞こえるので進めよう。
医学は科学に基づく一般則だ(あまりにも雑な語りで怒られそうだがあえて言い切る)。 対して医療は目の前の患者に対する、その時その瞬間にしか扱えない、再現性のないものを扱う行為なのだ。 ツイッターでは医療の科学としての側面がやや過剰に強調されている気がしなくもないのだ。 こんな落ちこぼれの留年生の戯言など聞き流してもらえればそれが1番なのだがどうせ誰も読んでいないだろうから、言ってしまおう。 現実の医療を科学で語るのには限界があると思うのだ。 具体的に言えばエセ医療と呼ばれるもの。 当然推奨するつもりなどない、がしかしだ、息子の回復を祈って母が買うお守りはどうなんだろう。「それとこれとは話が違う、エセ医療は金儲けのためのものだ」というような反論はあるだろう。確かにそうだ。だがしかし、どちらも「意味がない」という意味では同じであると思う。母親が息子のためにお守りを買うことを止める医師は恐らくおるまい(カルト教団ともなるとまた変わってくるかもしれんが)。そこに科学としての医学の持つ一つの限界があると思うのだ。 じゃあ何だよ、と言われても僕に言えることはあまりないのだけれど。
非合理であるということ
エセ医療を科学的根拠でもって潰すことに躍起になっても恐らく最終的な解決にはいたらない。そこにあるのは一般論では語れない人間が持つ不合理性なのだ。
恋は盲目とはよく言われることで、色恋に浮かれた人間は非合理的な動きをすると言われるが、そもそも人間というものはそこまで合理的に生まれてきたわけではないと思う。 そもそも何が合理的で何が非合理なのか、それを一意的に決めるのは一つの論理であり、異なる論理を持つ人間には全く意味のない言葉である。仮に「神の論理」とも呼べるような唯一不変の論理があったとして、人間はまだまだそんな境地には至っていない。
人間とは非合理である。
そこから始まる話もあるのだと僕は思う。
普通比べないモノ、コトを並べて語る「並列怪論シリーズ」として不定期に書けたら良いかもしれない。