木曜レジオ

恥の多い人生ですね(達観)

国試までの進捗 七月編 国家試験日正式発表

このシリーズ書くのも久しぶりですね

前回
国試への進捗 消化器編 おまけの内視鏡クイズもあるよ - 木曜の医師国家詩篇


国試まであと222日で、いよいよ114回国試の試験日程が正式発表されましたね

長らく進捗記事書いてなかったとは言え、別にこの二ヶ月くらい勉強してなかったわけではないんですよ
実習とか色々ありましたし。とは言え実習だなんだかんだでペースが著しく乱れた感じは否めません。
とても勉強にはなったので、実習自体には感謝してますけれども。

以前から言っていたように僕ら留年生は3人組で勉強をしていたのですが、やはり3人揃って勉強、という体制には限界があって各々頑張っていくことになりました。
2週間に一回程度は顔を合わせて進捗の報告や問答?などをしてみよう、という感じです。
個人的には今現在、循環器、消化器、呼吸器、神経と来てるので、産科や内分泌そして救急などの国試でよくでるところを抑えていきたいな、という感じです。

7月末には個人受験ですが、メックの夏模試を受けます。
去年のさんさんたる結果の二の舞にならぬように頑張っていきたいと思います。おそらく卒業できるか否かの判断材料にもされそうですし。

と言うわけで、試験の勘を取り戻すために去年のメック夏模試を解き直してみたいと思います。
1日1ブロックですが、取り敢えず去年からの成長を感じられたらな、という感じです。

それでは今月もやっていきましょう。

読書日記1冊目 オカルティズム 非理性のヨーロッパ その2

前回の続きです。

前回 読書日記1冊目 オカルティズム 非理性のヨーロッパ その1 - 木曜の医師国家詩篇

さて、「オカルティズム 非理性のヨーロッパ」(以下、本文)読了。

後味

まず端的な感想としては、最後はかなりあっさりだったり肩透かしとすらいっても良いかもしれない。

中世の魔術に関する記述に比べれば心霊術以降の記述は歴史的な事実の羅列になっていたような気がしなくもないが、本書の目的がオカルティズムの歴史を描くことにあるとすれば妥当なのかもしれない。

取り敢えず前回からの残りの目次を見てみよう。

第四章 ユートピア思想と左派オカルティズム
第五章 エリファス・レヴィ――近代オカルティズムの祖
第六章 聖母マリア出現と右派オカルティズム
第七章 メスマーの「動物磁気」とその影響
第八章 心霊術の時代
第九章 科学の時代のオカルティズム――心霊術と心霊科学
第十章 禍々しくも妖しく――陰謀論を超えて
終章 神なき時代のオカルティズム


特に個人的に関心が向いたのは第四、五章だ。
フランス革命によって神なき世界がもたらされた後、その神の代替としての人類が配されることになるのだが、これらのものを左派オカルティズムと本書では定義している。

第四章 ユートピア思想と左派オカルティズム

一九世紀当時の迷信とはすなわち絶対王政を裏付けする神であり、それを否定することが革命や実証主義社会主義やらユートピア思想であったのだが、そこに居た「神」を否定することはできてもその「座」を排するには及ばず、その空位にオカルティズムが潜り込むことになったのだ。
世界史を学んだ高校時代、フランス革命パンテオンだの死者崇拝だのが突然飛び出てきて驚いたのだが、こういうことが起きてきたのか、と納得した。

フィリップ=ミュレーによれば、一九世紀を説明する鍵とは、社会主義ユートピア)とオカルト、いや、その両者の曖昧かつ、いかがわしい融合なのだ。

本文p90より

第五章 エリファス・レヴィ――近代オカルティズムの祖

そもそもエリファス・レヴィとは何者か。

以下ウィキペディアより引用

エリファス・レヴィ(Eliphas Levi、本名アルフォンス・ルイ・コンスタン (Alphonse Louis Constant)、1810年2月8日 - 1875年5月31日)は、フランス・パリ出身のロマン派詩人、隠秘学思想家。41歳の時に本名をヘブライ語風にした「エリファス・レヴィ」に改名し、隠秘学の著作を残した。
パリの小ロマン派の文芸サロンに出入りしていたが、後にカバラ錬金術、ヘルメス学、キリスト教神秘主義などの研究を行い、近代ヨーロッパにおける魔術復興の象徴的存在となった。魔術は理性に基づいた合理的科学であると主張し、実際にはその教義体系は精密さを欠くものであったが、古代の密儀、タロット、儀式魔術(英語版)などのさまざまな伝統を「魔術」の名の下に総括しようとした。

後のフランス、イギリスのオカルティストに大きな影響を及ぼし、またシャルル・ボードレールヴィリエ・ド・リラダンステファヌ・マラルメアルチュール・ランボー、W・B・イエーツ、アンドレ・ブルトンジョルジュ・バタイユなどの作家、詩人たちも影響を受けたとされる。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%25E3%2582%25A8%25E3%2583%25AA%25E3%2583%2595%25E3%2582%25A1%25E3%2582%25B9%25E3%2583%25BB%25E3%2583%25AC%25E3%2583%25B4%25E3%2582%25A3

とのことであり、章のサブタイトルの通り、近代のオカルティズムにおける象徴的かつ、中心的な人物である。その影響は現代のサブカルチャーにおける魔法や魔術にまでつながっている。

彼もまた、フェミニズムやプロレタリア運動と関わりを持っていた。

アルフォンス・コンスタンがフロラ・トリスタンと知り合ったのはちょうどこの頃のことであり、(中略)フロラ・トリスタンは同じ一八三八年に刊行した小説『メフィス』以降、「女性」と「プロレタリア」という近代における-あるいは歴史を通じての-二つのパリア(賎民)を「聖化」することにより、近代社会主義の先駆となった

本文p113より

エリファス・レヴィに関しての話で重要であると感じたのは以下の点である。

まず、ルネサンス魔術から大宇宙と小宇宙との照応・類比の概念をそのまま受け継いだこと。加えて精神的なものと物質との間に照応を認めたこと。

そして、照応によって二重化された世界を魔術的に操作する能力として「想像力」を定義し、媒介としての想像力の根源にあるのは世界を支配・統御する術者の「意思」ないし「言」である。

人間の理知と意思は計り知れない範囲のちからを備えた道具である。その絶大な力がもっぱら魔術の領域に属している一つの能力に助けられて、それを媒介として成り立つものである。私が言わんとしているのは、カバリストたちが「透明体」、あるいは「透けるもの」と呼んでいる想像力のことである。

エリファス・レヴィ『高等魔術』教理篇p53
本文p124より

一応この記事は読書の感想なのであまり色々ということは避けておくが、かなり色々なことへのヒントとなる記述であると考える。また改めて記事にしたい。

まとめ

さて、このあとの本文は心霊術やフリーメイソンへの陰謀論ナチスに代表されるユダヤ差別へとつながる右派オカルティズムの話が展開される。
やや恣意的ではないか?という著者の解釈もあったが、オカルティズムが持つ「毒性」が十分にわかった。

一九世紀オカルティズムの行き着いた果てに出現する「全体主義的」「差別主義的」「抑圧的」社会、「陰謀論」渦巻く不吉な予言を目にした後で、改めてこう問うことは可能かもしれない。
「オカルティズム」とは、結局、単に非科学的で、政治的に反動的な意味しか持ち得ないのであろうか。神なき現代において、それでもなお自分が万能だと信じさせてくれる何か、万人に予想される「死」への代替装置にすぎないのだろうか、と。

本文p279.280

筆者が読む限り著者が自らのこの問いに明確な答えを与えては居ない。もしかしたら読み取れていないだけなのかもしれないが。
やや批判的な物言いをすれば、最後には無理やりサブカルチャーとオカルティズムを結ぶことでお茶を濁した感じもあったように思う。
瑣末なことではあるのだが、今のこのサブカルチャーで、ゴスロリ女子をその代表のように扱うのはややズレているようにも感じた。

とはいえ、この本はとても興味深く、中々大きな縦糸でもって読み解くことができない「オカルティズム」という思想を歴史的に読むことができる極めて貴重な本である。
読むことができてよかった本である。

本屋が好きだという話

今日ぼくは大きめの本屋さんに行った。

普段は山奥に篭っているぼくだが、今日は大学院で勉学を頑張る妹の参考図書を買う為に使いパシリとして本屋に赴いたのである。

妹の本は予め決まっていたこともあり、トイフルだかエイブルだかのテストの参考書なので在庫も十分でそつなく買うことができた。

お使いができる、えらい。医学部に入っただけある。

さて、メインミッションを終えたぼくは一冊だけ自分の本を買おうと決意した。

ちょうど昨日「オカルティズム 非理性のヨーロッパ」を読み終えたところであり、やや内容に物足りなさを感じていたこともあって次の獲物を気合を入れて探し始めたわけである。


ツイッターのタイムラインで名前を見かけて気になったシオランウェルベック、ジャック=デリダ、そのあたりから探してみるか。

そんなことを思いつつ実存主義の棚でシオランの本を探してみるが在庫としてあったのは一冊だけ。しかも四千円近くする。これでは買えない。予算は精々二千円だ。

シオランをチラ読みしつつ諦めウェルベックはどうかと本棚を覗いてみると、ウェルベックって作家なのか!いや、無知ゆえに知らなかっただけなのだが、どうにも今日は小説の気分ではない。そういう日がある。

頼みの綱でジャック=デリダの本を探してみるとやはり大量にある。

入門書の雰囲気をまとった本を探して読んでみるとなるほど割と悪くない感じだが、やや決め手に欠ける。内容というよりは本のレイアウトが気にくわない。ぼくにとってなんだか非常に読みにくい文章の配置がなされていたのだ。妙に上に寄ってるような感じとでも言えば良いのか。Amazonのレビューを見てみるとあまり芳しくない。うーむ。

ここでふと時計を見ると本屋に入店してから既に3時間が経過していた。
バカな。
今更説明するまでもないがぼくは留年生で受験生でそんなに時間があるわけではない。いや、別にそんな寸暇を惜しんで勉強しているかと言われればそんなことはないのだが、こうして机の前にすら座らず、まったく医学と関係ない場所で無為に時間を過ごすのは罪悪感で居心地が悪い。

血迷ったぼくは医学関係の本棚へと移動した。

れ、レジデントマニュアルでも買うか??

そんなことさえ罪悪感から逃れたい一心で思ってしまった程だ。
しかし、ここでぼくは冷静になった。ただでさえ遅れがちな勉強の進捗をこれ以上副読本を増やして遅らせてどうする気だ。
こうしてぼくは新しい医学参考図書を買うことを回避した。

さて、ここまでくると焦りから文字を見るだけで酔って吐き気がしてくる。
昔ハマってた仏教哲学にも引かれるし、ローマ史なんかもいいかもしれない。
それまでの読書体験が満ち潮のように溢れてきて余計に明快な判断を低下させる。

こうなったらもういっそのこと文字がない画集なんかもありじゃないかと画集のコーナーへ行く。

この人ツイッターでフォローしてる人やんけ!なんて人たちの画集が並んでおり、あれもこれもどれもそれも欲しくなる。
しかし、かなしいかな、画集の「読み方」がぼくにはまだわからない。
当たり前だが「読む」だけなら一瞬なのである。
美術館に足を運び体験として絵画を見ることにはある程度慣れているのだが、自室で本に印刷された絵を楽しむ方法がイマイチわからない。

そんなことを思い始めると画集も買えなくなった。

焦りはここでついに頂点に達する。

もういっそ何も買わずに帰るか?

だがしかし、それは敗北である。酒池肉林、垂涎の美食美女を前にたじろぎ帰宅する童貞のようなものである。
家に帰ってから枕を濡らすのが見えている。

そしてぼくは考えを変えた。

本じゃなくて雑誌を探そう。

そうしてぼくは哲学系の評論を集めてるっぽい雑誌のコーナーに行き着いたのである。


そこで不定カルチャー誌 アレ を見つけて購入に至ったのである。

まだ途中であるがとても面白い。

いろんな人間が1つの主題について語るので気分的には回転寿司屋の気分である。

文字に酔いかけていたぼくにはちょうど良い。

こういう出会いがあるからぼくは本屋が好きなのである。

イメージで掴めるかもしれない肺炎 レジオネラとガメラ2 レギオン襲来

主が、『おまえの名は何か』とお尋ねになるとそれは答えた。『我が名はレギオン。我々は、大勢であるがゆえに』
マルコによる福音書5章9節 より

肺炎をまとめたい

久しぶりに医学ネタでも書くかと言うわけで、今僕が呼吸器を勉強していて肺炎のことがちっとも覚えられないので、ブログ書きつつまとめつつ覚えて行けたらな、という記事シリーズにしていきたいです。

いつものアフォリズムシリーズとは違う感じで趣味性のある読み物として呼んでもらえたら良いのかも知れません。

また、毎度のことながら留年生の言うことなので全面的に信用して留年しても当方は知りません!

ガメラ2 レギオン襲来


冒頭の聖書の一節は、ガメラ2 レギオン襲来という怪獣映画に出てくるセリフです。

この映画に出てくるレギオンという怪獣を見たときに登場人物が口走りました。(洋画の登場人物かコイツは)

以下Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%25E3%2583%25AC%25E3%2582%25AE%25E3%2582%25AA%25E3%2583%25B3_(%25E6%259E%25B6%25E7%25A9%25BA%25E3%2581%25AE%25E6%2580%25AA%25E7%258D%25A3) より引用したレギオンの解説

隕石と共に地球へ飛来した。炭素化合物(有機物)で形成されている地球上の生物とは異なり、ケイ素(シリコン)の化合物で形成されているケイ素生物であり、未知の絶縁体で構成された甲殻は各種の電磁波を反射する。
「レギオン」とは、新約聖書のマルコによる福音書5章9節に現れる言葉。「主が、『おまえの名は何か』とお尋ねになるとそれは答えた。『我が名はレギオン。我々は、大勢であるがゆえに』(翻訳は映画オリジナルのもの)。」ローマ軍団のレギオン(古典ラテン語:legio)から転じているが、聖書では男に取り付いた悪霊が自らのことを指して呼んでいる。劇中では、ガメラを襲ったソルジャーレギオンの群れを見た自衛隊隊員により、「大勢/多数」の意味から名づけられた。なお、作中における「レギオン」という呼称は略称に過ぎず、正式呼称は「Symbiotic Legion」となっている。

ギオン自体はこんなのです。人間大の虫と言ったところ。コイツが土の中を移動してワサワサと群れになって地下鉄とかで襲ってくるわけです。映画冒頭の地下鉄でのレギオンが人間を襲うシーンは最早ホラー映画です。サイズ的に怪獣か?と思われるかも知れませんが、レギオンには想像以上に興味深い生態があるんですよ。映画 レギオン襲来は怪獣映画でもありますが、その宇宙怪獣としての設定はSFとしてもとても面白く、正直レギオンだけでアニメの1クール回るくらいの素材だとおもいます。是非実際に見てその生態を確認してみてください。

オタク語りな映画の話は置いておくとして、重要なのはレギオンの語源が古典ラテン語
legio
であることです。…なんか見たことがある言葉ですよね(露骨な誘導)。
上記の引用部分にも書いてありましたが、ローマ市民のみで構成されるローマ帝国陸軍の基本構成単位がレギオンでありました。つまりおっさんの群れです。

レジオネラ

国試的に言えばレジオネラと言えば温泉!温泉と言えばレジオネラ!くらいのものかも知れません。

もう少し深く掘りましょう(温泉だけに)。何故レジオネラがレジオネラと名付けられたのか。

以下
レジオネラ症とは
国立感染研究所のホームページより

レジオネラ症(legionellosis)は、レジオネラ・ニューモフィラ(Legionella pneumophila)を代表とするレジオネラ属菌による細菌感染症で、その病型は劇症型の肺炎と一過性のポンティアック熱がある。レジオネラ肺炎は1976年、米国フィラデルフィアにおける在郷軍人集会(Legion)で集団肺炎として発見されたところから、legionnaires' diseaseと命名された。ポンティアック熱は、1968年に起こった米国ミシガン州Pontiacにおける集団感染事例にちなんで命名された。レジオネラ属菌は、もともと土壌や水環境に普通に存在する菌である。しかしながら、快適な生活や水資源の節約のため、エアロゾルを発生させる人工環境(噴水等の水景施設、ビル屋上に立つ冷却塔、ジャグジー、加湿器等)や循環水を利用した風呂が屋内外に多くなっていることなどが感染する機会を増やしているものと考えられる。感染症法の施行以後、検査技術の進歩とあいまって、2013年には1,111例(暫定値)が報告された。病原体に曝露された誰しもが発症するわけではなく、細胞内寄生細菌であるため、細胞性免疫能の低下した場合に肺炎を発症しやすい。

つまり、そのまんまレギオンがレジオネラの語源な訳です。ローマの軍隊のことをレギオンと呼んでいたことが転じてこのような英語になったのでしょう(多分)。

まとめると

ギオン(怪獣)
土の中の怪獣。群れで行動する。それぞれは人間大の大きさだが、放っておくとコロニーを形成し土の中からインフラを破壊し短期間で街1つ壊滅させるヤバイやつ。

ギオン(軍団)
中年の群れ。

レジオネラ

本来土中の菌であるが、人工的な水循環系(温泉や空調管理システム)の中で増殖し、中高年で好発し集団感染を引き起こすこともある。
また、重症化しやすく放って置けないので原則入院とし、抗菌薬の投与を開始する。
比較的徐脈であることや低Na高CKも特徴的。

こんな感じで若干のリンク付けができたのではないでしょうか。

ローマ帝国ガメラが好きな僕はできました(迫真)。

こんな感じです。


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読書日記1冊目 オカルティズム 非理性のヨーロッパ その1

さて、読書日記である
単なる書評にしても良いのだが僕の筆力ではそれもままならないのであくまで日記という形で進めて行くことにする。

3日前から読み進めているのはこちら。

オカルティズム 非理性のヨーロッパ (講談社選書メチエ)

オカルティズム 非理性のヨーロッパ (講談社選書メチエ)

以下amazonより引用

ヘルメス文書、グノーシスカバラー、タロット、黒ミサ、フリーメーソンやイリュミナティなどの秘密結社、そしてナチ・オカルティズムとユダヤ陰謀論……古代から現代まで、オカルトは人間の歴史と共にある。一方、「魔女狩り」の終焉とともに近代が始まり、その意味合いは大きく変貌する――。理性の時代を貫く非理性の系譜とは何か。世界観の変遷を闇の側からたどる、濃密なオカルティズム思想史!

【目次】
序章 毒薬事件――悪魔の時代の終焉と近代のパラドクス
第一章 オカルティズムとは何か
第二章 オカルティズム・エゾテリスムの伝統
第三章 イリュミニズムとルソー――近代オカルティズム前史
第四章 ユートピア思想と左派オカルティズム
第五章 エリファス・レヴィ――近代オカルティズムの祖
第六章 聖母マリア出現と右派オカルティズム
第七章 メスマーの「動物磁気」とその影響
第八章 心霊術の時代
第九章 科学の時代のオカルティズム――心霊術と心霊科学
第十章 禍々しくも妖しく――陰謀論を超えて
終章 神なき時代のオカルティズム


書店で見つけた瞬間

これを待ってたぜ!!!

と小躍りした。僕は元々妖怪だとか民俗学が好きで、哲学とかに触れ始めたのは最近のことで昔懐かしの場所に帰ってきた気がしてくる。

そういう意味で僕にとっての原点回帰として、読書日記の始めの一冊としてはそんなに悪くないのではないか。

そう思う。

閑話休題

本の説明に移ろう。

この本は、別にオカルト的な魔術や呪術の実在を否定肯定するものではなく、歴史の中でいかに継承され変化していったかを辿っていくものである。

序章 毒殺事件

本書の冒頭では、1672年のとある毒殺事件について触れられる。

この事件の背後には大量の魔術師やら何やらがいたが、彼らは魔術を使った罪ではなく、ただの殺人者や毒物を売買した者として国家に裁かれることとなる。

第1章 オカルティズムとはなにか

ここでは、オカルティズムの簡潔な歴史とそれがいかに定義されてきたか、そして本書で何が語られるかが描かれる。 ここで筆者はオカルティズムは古代からの不変の定数ではなく、認識論的断絶を伴ったものであったという立場を表明する。

また、オカルティズムにおけるコレスポンダンス照応の重要性についても触れられる。

第2章 オカルティズム エゾテリスムの伝統

ここで筆者は、フランセス・A・イエイツの「ルネサンスの復興した古代とは、ギリシアローマではなく、ヘレニズム期のものでありオカルティズムと魔術が浸透した古代末期の哲学宗教思想であった」という説を採用している。

そこからヘルメス選書と呼ばれる文献にまつわる物語が語られる。

ヘルメス選書、そしてその著者とされたヘルメス・トリスメギストスを軸としながらも同時代に存在した高等魔術と民間に流布していた呪術(魔女など)の対比、グノーシス派、カバラー、フリーメイソンと薔薇十字団についても触れられていく。
そして17世紀以降、魔女狩りルネッサンス魔術の終焉をもって、魔術や悪魔は夢の中の存在へと落ちてゆくのだ。

第3章 イリュミニズムとルソー

近代オカルティズム前史として、オカルティズムの一派〈イリュミニズム〉について語られる。
筆者が有名なパラケルススより重要視するのはヤコブベーメスウェーデンボルグという2人のイリュミニストである。

そしてイリュミニズムとは異なった論理でもって近代オカルティズムの淵源となったのがジャン・ジャック=ルソーであるとされる。
ルソーによって「神」はキリスト教としての歴史性を剥奪され、倫理的法則へと変わってしまった。それをもって人間のオカルティックな霊の自律進化=完成可能性を示したことで近代オカルティズムの教祖的な立場になったのだと語られる。

途中までの感想とこの本で得たいこと

と、ここまでが昨日まで読んだ内容の軽いまとめである。

話としては恐ろしく面白く、ルネサンスを魔術の復興とする再定義はとても興味深い。

我々は未来に生きるがゆえに「今に繋がるもの」に目が行きがちである。しかし実際にはそれほどまっすぐな道を人類は歩んできたわけではないのだ。とそう思った。
我々から見ればルネサンスは科学成立の過程の1つなのだが、当時の人たちにとっては魔術・錬金術の発展過程でもあったわけで。


そのような学びもありながらも、所々ややその断定は暴論ではないのか?と思わされるようなところもないではないが、僕はヨーロッパ史に明るくないので現時点ではそれを否定も肯定もすることはできない。

あまり丸呑みにせず、とは言えかなりの面白さをもって、今後も本書を読み進めていきたい。

この本を読む個人的目的としては、現代における似非科学や反ワクチンの様な人たちの思想の系譜をもしかしたら見れるかもしれないという望みがある。それが叶えられるか否かはまだわからないが楽しみにしておきたい。

月と星の話

さっきの記事がなんとも鬱々とした内容だったので口直しの記事を1つ。

天文台に行ったことはありますか?

僕はつい先日初めて天文台に行きました。
とても小さな天文台でしたが、立派な天体望遠鏡があり、係の方がいろんな星を見せてくれました。

アルファード(アルファルド)という星をまず見せてもらいました。僕はこの星を「星は歌う」という少女漫画で知りました。主人公の女の子が憧れる少年のことを孤独星と呼び、この星に例えるのです。
実際に天体望遠鏡で覗いたその星は、周囲の星から少し離れ、自身もそこまで明るくはなく、大気の揺らめきに合わせて儚げに瞬く星でした。
主人公の女の子にはこんなふうに彼のことが見えていたのかと胸が少し締め付けられました。

また、どの星かは忘れましたが、四万年前の星の光も見せていただきました。なんともぼんやりとしていたのですが、ちょうど人類がアフリカ大陸から出発しだした頃の星の光で、ロマンチックさを感じました。

そして最後に月を見せてくれました。
それまで小さく儚げな星ばかり見ていたので、あまりに巨大な月のその頼もしさには圧倒されてしまいました。

係の人は面白い話をしてくださいました。詳細は忘れてしまったので所々曖昧ですが記憶の限り書いてみたいと思います。


マチュアの天体観測の醍醐味といえばやはり自分で新しい星を見つけて自分の名前をつけることと言うのがありまして、みなさん必死になって新しい星がないかということを探していました。
しかし、ある時にどうやらそれまで映画や小説の話だと思われていた「地球に星が追突する」ことが現実にもあることなのだという研究が出てしまいました。
こうなると大きな天文台の学者が世界中でデータを統合して新しい星を探しまくって、地球に向かってくるのがないか探し始めるわけです。
そうなるとアマチュアが新しい星をそれに先駆けて見つけるということは非常に難しくなってしまいました。

誰も見つけてないものを見つける、そんな楽しみが失われていきました。

そんな時に、高校生のとある天体観測サークルが目をつけたのは月でした。
月というものには実は今なお隕石が落ちていて、いわゆるクレーターが増え続けています。
彼らが目をつけたのはそれでした。
いつ落ちてくるともわからない隕石を待ち続け、ビデオカメラで月を撮影し続けて、隕石が落ちる瞬間の淡い光を捉える、そんなことに彼らは成功しました。

研究というものは細い糸を手繰っていくようなもので、その先に何かを掴むということが尊いのだと思います。



というようなことを語っていてとてもロマンチックでいい思い出になりました。

もう少し夏になれば夜もで歩きやすいですし、是非近くの天文台に行かれてみてはどうでしょうか。

頭の建て付けが悪い話

久しぶりのブログです。肩慣らしに日記でも書きますかね。
もうそろそろ六月で今年も半分が終わり、季節は気づけば夏です。受験生である僕にとってこの事実は鬱々としてしまいます。
国試対策で知識をツメツメしてる僕ですが、自分の記憶の悪さに辟易しております。
そんなわけで今日は僕の記憶の話です。

記憶の引き出し、なんて言葉があるように記憶は引き出しに例えられます。

この話で行くと、僕はこの記憶の引き出しの建て付けがとても悪い。

あまり自分では言うものではないと思うのですが、多分引き出しの容量自体は医学部になんだかんだ入ってる時点でそこまで悪くはないと思うのです。まぁ医学部基準で言うと少なめではあると思いますが。しかし、それ以上に「建て付けが悪い」。

例えばある知識が問われたとして僕は元々の不勉強のせいも大きいですが大抵答えることができません。問題なのは知ってる知識であってもそれが起こることです。

ある問いかけがあったときに関連する知識がわっと出てこようとするんですけど、それを取り出そうとすると途端に混乱して出てこなくなってしまうのです。
自分の記憶に自信がないからでしょ?と思われるかもしれませんが、僕の体感は少し違います。


ここで、また引き出しの話に戻ります。

引き出しと言う家具に求められる機能は3つ。

まず1つは「保存すること」

2つ目は「入れられること」

3つ目は「出せること」

あとはまぁ細かくカテゴライズして分けることなどもオプションとしての機能にはなってくるのでしょう。

僕の引き出しは、保存(とその質)はともかくとして入れることと出すことが非常に苦手です。

3日間連続で同じ道を間違いますし、自分の親の名前の漢字を覚えられず、さっき手にしたものは次の瞬間には消えている。

どちらかといえば記憶というより不注意の問題な気がしますが、結果として引き出しに入れる作業としての記憶が問題をきたしています。

入れ方がめちゃくちゃなので入れたつもりが全く入ってないのだと思います。

何気なく聞いて覚える、みたいなことができなくて、覚えるぞ!!とかなり強く念じないと引き出しが開いてくれません。

みんなこんなもんなんですかね?親の名前ってどうやって覚えました?


出す時に起こるのは先ほども話した優先順位の混乱です。
それに加えて起こることは、やっとかっと選んだ答えを自分で否定しにかかってしまう誤作動です。
子供の頃親に「自分が正しいと思ったことは間違ってると思え」という教育をされ、それ自体はそこまで悪くない訓示だと思うのですが、僕の中で妙な感じに結実してしまって誤作動をずっと起こしています。自然と自分が違和感を感じる回答に惹かれてしまって、その違和感をそれらしさに感じるようにいつしかなってしまったというか。

これが勉強だけならまだ良いのですが、好きなものでも中々内容を覚えられないのでとても苦労しています。
ずっと好きでやってる部活の毎日当たり前にやってるはずの動作も「思い出そうとした瞬間」にわからなくなります。

自分がドン引きするくらいに。

まぁこれは日記なのであくまで愚痴を書いてるだけで解決策の提示などする気もないのですけど、頭の建て付けが悪いことを少し自分なりに分析してみました。

記憶できない、ということも解体してみれば色々な素因が絡まって起こるのだと思います。

以前すこし話をした「仕事がデキない人の話」
仕事がデキない人たちのこと - 木曜の医師国家詩篇
にも少し通じる話でした。

結局何が言いたいかよくわからない記事になりました。何かもっと書きたいことがあった気もするのですが、忘れてしまいました。

こんな毎日です。